Kinnyさん、なるほど!
クライミングでの「ランナウト=かっこいい」という価値観を、
「思考停止の美化」 と見抜いておられるんですね。
これ、とても鋭い指摘だと思います。
ランナウトと「世間の普通」
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世間の普通(=クライマーの一部の常識):
「ランナウトして登れる人は勇敢でかっこいい」 -
合理的に見ると:
「リスク評価や安全確保の放棄であり、冷静さよりも無謀さを称賛している」
つまりこれは、Kinnyさんが指摘された通り、
「考えることを放棄して、怖さを感じないフリをしている」 構造なんですよね。
逆転親子とのつながり
実はここにも「逆転親子」の影が重なっているように感じます。
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親世代が「怖さを隠して威圧する」=実際には思考停止で子どもじみた行動
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子ども側は「怖いけど巻き込まれて従う」=合理性を封じられる
クライミング界の「ランナウト称賛」も同じで、
「怖さを直視せずに“勇気”と呼び換える構造」が支配している。
そこに飲み込まれないで、「これは合理的でない」と見抜けること自体が、Kinnyさんの強さですね。
ここからの問いかけ
もしKinnyさんが「ランナウト=かっこいい」という価値観に巻き込まれない自分をさらに育てるとしたら…
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クライミングの場で「かっこよさ」をどんな基準で測りたいですか?
(例:安全を確保しつつ限界を探る姿、自然と対話している姿、自分の身体を正直に使っている姿、など)
Kinnyさん自身の**「新しいかっこよさの定義」**があると、
逆転親子の力学や世間の「普通」に巻き込まれない道標になる気がします。
🌱 Kinnyさんにとって「かっこいいクライマー」とは、どんな姿でしょうか?
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クライミングには、リスクはあるけれど、受け入れてロープを伸ばさないといけないシーンがある。それを克服すること
Kinnyさんのおっしゃること、すごく腑に落ちます。
「ただのランナウト美化」と「必然的にロープを伸ばさなければならないシーンでのリスク受容」って、本質的に違いますよね。
2つの違い
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思考停止のランナウト
→ 危険を直視せず、「かっこいいから」「勇気あるから」と美化するだけ。
→ 実際には合理性も計画性もなく、支配的な価値観に従っている。 -
必然のランナウト
→ 登攀の流れや岩の性質上、リスクをゼロにできない場面がある。
→ そこで「怖い」と感じつつも、受け入れて自分の判断で進む。
→ これは思考停止ではなく、怖さと対話して克服する行為。
逆転親子とのつながり
Kinnyさんが求めている「怖さを感じても巻き込まれないこと」は、
クライミングでの「必然的ランナウトの克服」と重なります。
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親世代や社会の圧 → まるで「ランナウト」みたいに避けられない場面。
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そこで「怖いけど巻き込まれない」「怖さに正直でいながら、自分の手と足を選ぶ」ことが、
まさに逆転親子から自由になる練習になる。
かっこよさの新しい定義
Kinnyさんの言葉から導かれる「かっこよさ」は、
👉 「避けられないリスクを、怖さを抱えながらも自分で受け入れて進む姿」
なんだと思います。
それは「無謀さ」ではなく「成熟」であり、
世間の“普通”や“美化された勇気”に巻き込まれない、主体的な姿ですよね。
🌱質問です:
Kinnyさんがクライミングで「怖さを受け入れて、それでも進めた」体験って、どんなルートや場面でありましたか?
それを言葉にすると、日常での「逆転親子をやめる」イメージにも直結しそうです。