2018/12/02

油山川3回目 自分を信じられない大人たち

■大人から始めるクライミング

昨日は、50代からスタートするトレラン経験者のIさんとの外岩だった。Iさんは、トレランをしていたそうで、体が強そう。たぶん、中高年登山に行っても、体力が余ってしまって楽しめないのだろう。

■ ギア不足

Iさんが懸垂下降を教わりたがっていることは分かっていたが、確保器を持っていないため、教えるのは時期尚早、と思われ、どうしようか…というところだった。

これまで、ビギナーと思われる人のギア不足には、甘く、冬の靴すら貸して、初級の雪やアイスに連れて行ったくらいだが、基本的なギアを揃えない人の将来は?

…というと、ほぼダメである。借りて当然という意識が芽生えてしまって、貸してくれないのは、心が狭い、とすら言い出す人もいる。一方、貸す側の負担もかなり大きい。ので、ここ数年の経験から、そうした負担を、あまり負わないことにしたほうが良いと結論した。

が、Iさんの話を聞くと、購入すべきものが分からないようだった。

ATCガイドを購入したら、師匠のS木さんが「それは自分で考えて購入したの?」と尋ねてきて、「はい」と答えたら、非常に評価された。たぶん、それまで会の新人さんが、店員さんに騙されて、この大定番を買わなかったためだろう。

しかし、その後、ATC-XPをゲレンデでの使用だから、と持って行ったら、「リードしない人には教えません!」とのこと。ATCの種類で色々なことが推測できるのだ、ということが分かった。山の世界で生きて行ける人は、探偵になれるかもしれない。

しかし、実際、スポーツクライミング向け、フリークライミング向け、アルパインクライミング向け、と用途が様々で、確保器一つ買うにしても、購入が難しいのは事実だ。

今回は、ヘルメットを買ってくれ、最低限、岩場での安全も確保されたこと、借りて当然となりそうにないこと、確保器は、私はいっぱい持っていて、特に貸し出しに負担がないこと、など考慮し、貸し出しOKということにした。

本当はこんなことに心配しないで登れたらいいのだが、最近の人は、図々しさでも猛々しい人がいて、そういう人に当たる率が、なぜか私は多く、あまり無防備な親切は、相手にも、自分にも良くないことらしいのだ。それが4年、アルパインをして学んだこと。

残念な世相だ。

■ 能力への懐疑心

さて、今回は、印象に残ったことがあった。それは、登れることへの懐疑心、ということだ。

大人からスタートすると、覚えが悪い、と一般に言われる。

たしかに、これまで教えてきた50代以降の人は、見たものをそのままコピーする能力が減っているようで、確保器をセットしたとしても、それが反対だったりして、あれ?ということが多かった。ほかには、何度も同じことを言わないといけない、ということもあった。呑み込みの早さ、ということに問題がある、ということだ。

ただこれは個人差が大きい。個人差のほうが、年齢差を凌駕していると思われる。50代、60代でスタートしても、あっという間に上達してしまう人もいる。

覚えが悪いのではないだろうか?と、周囲の人に先入観を持たれることは、自分自身にも、自分は覚えが悪いのではないだろうか?という先入観を抱かせるのではないだろうか?

これはクライミングでも感じたことだ。

能力への懐疑心が先にあるのではないだろうか?と思われた。

若い人は、登れない自分がいる、ということを想像だにしていない。取り付くときの自信がすごい。登れるはずだと思っている。そして、「なんで登れないんだ、ちくしょー」と怒っていたりする。その自分自身への能力への信頼が大きすぎ、少々、自信が過剰である、というところが、事故原因となっていることが多い。

一方、この方は、最初から、難しいのではないか?登れないのではないか?と思って登られていることが明らかで、そこには、懐疑心、というものが根強くあるのであった…。

それは、つまり、初心者当時の、私自身を見るようだった。

というのは、私も、”一体、こんな屹立した壁、登れるわけがないでしょう”、と思っていたからだった。

とくに、インドアジムへ通い始めてから、インドアジム壁と外岩の関連性は、見極めづらかった。インドアは何が難しいの?って感じ。外岩は難しすぎて登れない感じ。

その期間は長く、3年は、かかっているだろう。私は登攀は比較的早めに始め、クライミングジムは、ぽつりぽつりだが、あまりグレードを気にせず、ぶらりと通っていた時期があった。山登りしかしないころだ。年に10回程度か。

そういう期間は、クライミングに入れ込んでいないため、ムーブと言われても、?な状態で、基本的に、8級くらいまでしか登れていなかったし、楽しいとも思っておらず、ただ、”いつか”、が来るのを待っていただけだ。

”いつか”は、来た。 それは、正対と側体が使い分けられるようになった時だったが…。

それまで、本当に、”楽しくなかった”。

正直に言えば、全然、楽しくなかったのだ。登っていても、「これの何が楽しい訳?」と思っていたし、ほかの人も「一緒に登りましょう」と言ってくれる人もおらず、避けられているような気、すらした。セッションで、わいわい登っている人たちの輪には、人種が違って、入りづらかった。

あるとき、突然、側体が身について、驚いた。それで、何度も9級とか8級を、側体と正対の2ムーブで登り始めたら、なんというか、なるほど感があった。

また、ジムにきている女性たちは、ずーっと8級で7級まで行く人は少なかった… そんなこととは、つゆ知らず。

会の先輩で2級が登れる人が、5級課題のムーブを教えてくれると、「教えたらすぐ登れるようになった」と言う…たしかにそうで、ムーブの正解を見てしまうと、それをなぞるのは、普通にできた。ただ、自分でそのムーブに、たどり着けないらしかった。

つまり、欠けていたのはクライミング脳、らしかった。

■ 教わらずに分かる人vs教わって分かる人

あかりちゃんとI永さんは対照的だ。あかりちゃんは、最初から、クライミングが楽しそうで、教えなくても上手になる。むしろ、外岩なのに、デッドで取っていて、あぶないから、まだリードさせられないなと思う。

一方、Iさんは、登れないのではないか?という懐疑心のほうで、たぶん登れるところも登れなくしてしまっているかもしれない。

クライミングにムーブがあれば、楽に登れはするが、ムーブがなくても、易しいグレードのものは登れる。

一般的には、ムーブが必要になるのは、5.10bくらいからだ。5.10A以上がフリークライミングの領域で、5.9以下の課題は、一般に”ナインアンダー”と呼ばれる。通常は、ムーブなしでも、登れるはず、という段階だ。

ナインアンダーであっても、ムーブがあれば、よりパワーを浪費せずに、登れることは確実だ。実際、私は昨日、5.10bのクラックをやったのだが、肉体的には、どこも疲労していない。考えてみると、4年前の初心者当時は、一日の外岩で、惨敗兵みたいにぐったりしていた。

思うに、最初から、クライミングが楽しい!というタイプと、なかなかクライミングの楽しみ方が自分では発見できないタイプ、がいるのではないだろうか?

私は確実に後者だったと思う。でも、しつこく登っている間に、なんとなくクライミング力はついてきた。

自分を振り返ると、何が分からないのか、みんなが言っているムーブって、何なのか?
体が分かるだけに、3年くらいはかかったなぁと思う。なにしろ、初めて5.9がオンサイトできるまで、2年半もかかったのだ。

昨日、私が取り組んだ、センタークラック5.10bは、目視で見て、登れるのではないかと思い、先輩がカムセットしてくれたものを最初はピンクポイントで、リードで取りついたのだが、予想以上に苦戦して、だいぶ、へこたれたのだった…。時間も長くかかった。

結局、カムエイドも出したし、あれこれ、ズルをして何とか上に行ったんだが、難しかったのは、下部のフットスタンスのほうで、上部の、ハンドジャムやフィストジャム、ばち効きのところは、あれ?もしかして易しい?という感じで、悪い気はしなかったのだった。

それで、また行く気になったものの… 自分の恐怖心を抱くポイントは、トップロープでも、あまり変わらず、そして、リードで取りついたときと、トップロープでは、ムーブの出具合は、リードのほうが良いような気がしないでもない。

ムーブというのは、不思議なものだ。いつかどこかでやったようなことが、体のどこかに深部記憶として残っているのだろうか?

色々なムーブというが、その意味することは私自身もイマイチよくわからない。

ムーブが上手な人は、考えてやっているわけではないそうで、無心で登っているだけなのだそうだ。なので、上手な人に聞いても教えてもらえない。

私自身は、言葉で教えられたことをなぞることが上手なタイプで、それはバレエの教え方が言葉によるものと先生のお手本による例示によるものの、2段構えだからだろう。

バレエでは、グランバットマン2回、ジュッテ1回、裏返して同じこと、という言葉と動作が一致するように訓練するのだ。ジュッテを下さいとコリオグラファーが言ったとき、素早く出せるのがダンサー。

クライミングは、そういう訓練は必要とはしないのだが、どうしたら、登れるか?というコミュニケーションに登って見せる、という以外に言葉があると便利ではある。

次は、ヒールフックして体を上げたら、次はランジ、などなど。しかし、そうした技の習得に、一喜一憂しても、結局は、保持力やリーチという問題に落ち着くかもしれないのだが。

まぁ、私自身がまだ未修得の技があるということは言える。その上、保持力もまだトレーニング過渡期であることも言える。

ので、取れる糊代を取り切っていない、ということが、辞めるにやめられない理由ではあるのだが、自分自身への懐疑心… 登れないのではないだろうか?ということが、成長の抑制要因になっている、ということは理解できる。

自分自身を信じるということは、ある種、成功を恐れる気持ちがあるということだろうが、それは、クライミングをスタートした当初からある不安だ。というのは、登れてしまったら、途方もないグレードのところに連れていかれてしまうのではないか?という恐れがあるからだ。

昨今のクライマーは、登攀グレードと危険認知力がバランスして成長した人は稀で、登攀力のほうが勝っている人が多いし、その場合、危険認知力が劣るということは、成長する意欲と危険から身を守ろうとする意欲では、後者の方が少ないということだからだ。

連れていかれてしまう恐れは常に感じている。

しかし、その恐れがブレーキになっているか?というと、それは、成長しないこと、努力しないこと、怠惰のことの言い訳になっているかもしれないが、どうなのだろうか?

もし勤勉の美徳を身に着けて、毎日指トレしたら、登攀グレードが伸びるのだろうか?

なんだか違う気がする。

私自身のこれまでの成功体験は、いわゆる勤勉の美徳、ということが功を奏したということは、めったになく、努力というものは、努力している本人にとっては、努力と感じられないもの、ということのほうが多かったからだ。

英語力は気がついたら、ペラペラの域に達していた。実際は、努力もしたのだが、本人は努力というよりも、何時間も無駄に過ごした気がする… いわゆるガリ勉というのは、していない…。ただ、辞書を引いて、語源を理解するのが趣味だったころもあったし、シャドーイングは、10年以上続けた。とくに成果というか、ご褒美がない活動だった。英語を解することで、何かが得だった、ということはない生活環境にいたからだ。

同じことで、クライミングもクライミングが楽しいということになるまで、誘われるままに出かけて行ったということで、出かけた際もあまり欲がないので、皆にいいの?と驚かれるくらいな感じで来た。

同じような人を見ると、まるで、過去の自分を見るようだ。

それは、機会喪失、チャンスロスに見える。とはいえ、意欲を無理して掻き立てるというのも変な話である。

というわけで、結局のところ、クライミング道もまた、人それぞれで、モチベーションを上げるということも、その人本人にしか、できない。結果、のんびりとした旅路である。

とはいえ、私の成長スピードは、まぁ、平均らしい。

クライミングは、楽しいと思えるまでが長くかかる旅路、なのかもしれない。

また最初から楽しめる人と、最初は言葉で、手取り足取り教わる必要がある人の両方がいるのかもしれない。