2017/06/04

愛で紡ぐ山

最近学んでいること。愛というのは、受け取られることで倍増するということ。

インスボンへ行った報告を、何人かにして、反応は、人それぞれ。嬉しかったのは、ある一人の女性の後輩が、私の好意を受け取ってくれたこと。沢ヤを紹介した。

インスボンは、パートナーの愛だった。

実は私が行く前にガイド中、墜落して踵を骨折したみたいだった。骨折だろう、と言うか、内部にひびが入った状態だと推測。ガイド中だったので、すぐに病院に行かず、翌日はレスキューの講習などをしてお茶を濁したそうだ。すぐに病院、行ってほしかったな。

ビレイがまずくて、距離的にだいぶ落ちたそうだが、ビレイヤーを責められない。ガイドというのは、顧客のビレイの質を期待してはいけないので、落ちた方が悪い。落ちない登りを普通はする。

登攀が楽しくて、ちょっとチャレンジ精神を出してしまったそうだ。チャレンジ精神はガイド中ではなく、プライベートで出さないといけない…。私は彼のビレイには慣れていて、繰り出しの幅も知っているので、出しすぎは、そうないと思う。私と彼は体重差があり、落ちられるとビレイヤーは大変で、どちらかというと、ビレイヤーのほうがリスクにさらされる。だから、あまり大胆な登攀は私とではできないのだ。彼の立場では。

彼本人が落ちないタイプの登りをする人なので、1年ちょっと組んでいるけど、墜落したことがないので、したがって停めたこともない。おなじくらいの体重の人を何度か止めているので、大丈夫とおもうんだけどな。

私が到着した時には、すでにだいぶ良くなっていたそうだ。山やの事故っていうのは、いつも不思議だが、町は歩けないが、山は歩ける。町ではビッコだったが、山に着いたら、ちゃんとしてた。登攀も、なんだか私に遠慮して、易しいのに限定しているみたいで、ホントは、もっと難しいグレードのに登りたそうにしていた。だから、ハヌルキル、行けてよかったな~。

ルートの素晴らしさは、まだ私には分からないが、私はとっても楽しく、あんまりパートナーの不調については、登攀中は気が付かなかった。週の中ごろ、欲を出して、結構遅い時間まで登ったら、二人とも疲れてしまったくらい。たぶん、向こうも、山では、不調ではなかったのかも。町では、なんだか青い顔。私は、目新しい街の様子にキョロキョロしていたんだが。ソウルは大阪の韓国語バージョンでした(笑)。

私たちは体質が似ており、つい熱中し、どかーと疲れる犬みたいな性質なので、どちらかが休憩を言い出すべきで、本当は水曜日は夕方レストだったのだが、月、火と私も調子が良く、すいすい登っていたので、水曜はチャンスのように感じられ、難しいのに行き、遅くまで登った。…ら、木曜は調子が悪かった(笑)。木曜も調子をこいて、ハイグレードにチャレンジしたからだ(笑)。やっぱり水曜はレストを入れるべきだったのだ。

韓国は、予想以上に楽しかったので、夫もハイキングで…と思ったら、夫はソウルより、台湾に行きたいと言う…彼は今、中国語を勉強中だから。台湾って岩場あったっけな?

今回は、彼が自分が長年かけて通い、地元の有名人になるほどに愛した岩場に、初心者の私が楽しく登攀し、白く輝く、砂浜のような岩場に感動して、そして、それが彼にとって一番の栄養、という山だった。

”愛”と言うのは、この場合に当てはめるには、大げさな言葉かもしれないが、岩場を見せてあげたい!とか、困っているなら教えてあげたい!とか、そういう思い…思いやりを発揮したり、受け取ったりの連鎖で、山行というのは、出来上がっていくもの…。

そうでない場合、ちょっと危ない。

例えば、一番簡単な例としては、自己顕示欲、というのがある。これくらいできるってことを示すために登る山。そうなると、プライドで登っているので、判断に一抹の不安を残してしまう…。シビアな判断が必要な時に、プライドによる判断に偏ってしまうとリスクが増える。

■ 後に続く人に…

人はみな、それぞれに、それぞれの戦いがあると思う… その、それぞれの戦いに真摯に向かっていること、それが人生で一番大事なこと。

私の課題の克服に、色々な人がメッセージをくれ、とてもうれしい。…愛を感じる。

…と同時に、その人たちは、もしかして同類ではないか?と思う。

私と同じような苦難を感じているということは、私がそれを乗り越えた経験(まだ乗り越えていないけど…)が、お役にたてないかな~と思うことも多い…。

競争と欲望が支配する、この世の中で、愛に動かされて、山行を紡ぐのは、とても難しい。愛を見つけること自体、稀有なことなのだ。

それを克服(まだしていないけど…)していくには、経験が必要だし、経験は、経験則に落とし込めるハズだ。

まだ、全然発見していないけど…。経験則。でも、私のパートナーは、その経験則を私に伝えようとしていると思う。

例えば、楽しく登攀すること、とか。 これは、登攀自体が内的な褒賞であり、そのものが楽しくて仕方ない、という状態のこと…アーサナでフローに入っている時、みたいなこと。チクセンミハイのフロー、ゾーンと同じです。

最近の成長で、一つ言えることは、今では誰にも理解されない…という孤立感は、なくなったということ。

振り返って、私は、自分に相応しくない人たちのところへ行ってしまっていた。選んだ私の自己責任だ。

人はただ単純に言って、自分に相応しい人たちと一緒に過ごすべきなのだ。私は単純に無知で、一緒に過ごすべきでない人たちのところに行ってしまったらしい。だから、受け入れられもしなかったし、私の側の貢献しようという努力は、ありがたがられもしなかった。

私は、その集団では、向うが正しくて、私の側が間違っているという攻撃を受けて孤立したり、傷ついたりした。が、その攻撃を”受け取る”必要はなかったのだ、ということが最近、分かった。

どちらが正しいと言う問題ではなく、単純に、違う人たちだったのだ。彼らは彼らで、各自の戦いを頑張っていたに過ぎない。

分かりやすく言えば、競争と損得を行動原理とする場に、そうでない人が行くと、嫌な目に合うのは、ただの必然で、原因と結果の法則に過ぎないということです。

多分、今メッセージをくれている人たちは、同じように苦しんでいると思うけれど、孤独のようでいて、ちゃんと同じ人たちは、木がホルモンを出して、好ましくない植物を入れないようにしているのと、同じになっていると思う。

くじけず、皆で、それぞれがそれぞれの課題を克服しつつ、愛の山を紡いでいきましょう!