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2024/11/02

【クライミング心理学】フリークライマーにセルフコンパッションを

”もっと、もっと”のグレード追っかけフリークライミングには、あんまりどころか、全然そそられなかったんだよなぁ…

そして、今では、”完全に避けている”。

もう、これがガン細胞だと発覚した、みたいな感じかなぁ…

なんで、私が、山好きになったか?というと…このような理由からです。

1)人間がしゃちほこばって頑張っても、山のほうがもともと偉大だし、強いから

2)1のことを理解した結果、人間は謙虚にならざるを得ない、から

3)山(自然)は、人をそもそも区別しないから

4)その結果、平等に”結果”がもたらされるから。悪因悪果、善因善果

5)その結果、真実の実力が試されるから。真の自分を磨くことができるから。

6)その結果、山の実力には嘘がないから。

7)その結果、真の自信=自然農でいうところの大安心が身につくから。

なんだけどなぁ…。九州時代はつらかった。

嘘と虚構で出来たアルパインクライミングが、一体どのようにして、作られるのか?という機序を知ることになった…つまり、エイドクライミングというズルが偽の実力や自信を作り、日本全国、どのルートを登っても、四級A1となった。(その結果、クライマーは、困ったらエイドすればいいだけだ、と傲慢になったのだろう…)

そして、ボルト連打というのは、マクドでハンバーガーとシェイクで太りまくって糖尿病になった、みたいな感じだ。つまり、初登の名誉欲という欲望にまみれた結果、起ることなのだ。

エイドでしか登れないなら、いくら登りたくても(名誉が欲しくても)、登らずに後世に置いておくのが良いと思う。結局のところ、そこは将来フリー化され、そして、ボルトの位置やルートの選択も、より洗練されたムーブが選ばれ、最終的にはより洗練されたフリーのルートとして確立するのだ。

つまり、エイド→フリー化→洗練されたフリールートという流れは、絵画に例えると、写真を撮る→ラフスケッチ→名作、みたいな流れで、そもそも写真に撮る段階で、駄作、と分かるようなルートが、現代では未踏として残されているだけだ。特に登山大系に載っているところ。だから、

落穂ひろい

として、昔から揶揄されているのだから…。今は時代の試練を経て、多くのルートが、ラフから名作への一歩を踏み出したい、という時点にいる。それを阻止しようとしているのが、ラフを手放さない著作権主張者みたいな感じだなぁ、と思う。

そして、次に起こっているのが、5.12波状攻撃登りで、つまり、何日もかけて1本でも5.12が登れたら、5.12クライマーです!っていう話。これは、ケーキの土台は端折って、トップのイチゴだけを食べるような話だ。そして、ケーキ全体を食べてます、って言うけれど、実は全然、ケーキの味は知らないのだ。

…という実態を知ることになった九州での山の経験だった。

付け焼刃と金メッキで出来ていた…

おまえらの人間のメッキもぐるっと丸ごと剥がれて、お見通しだぞ!と言いたくなったよなぁ…

終わってせいせいした!

■ 瑞牆

友人のタイ人のクライマーが瑞牆に来たので、歴史的な経緯を教えてやろうと思ったが、分からないかもしれないなぁ…。

あの瑞牆のトポの書き方では…。

歴史も何もない、アメリカの国を模倣したトポになっているからなぁ…

こちらは、金峰・瑞牆・小川山エリアの私の記録の一つだが…

御岳新道という古い古道からのアプローチだと、金峰山山頂に行くのに丸二日、人によっては3日かかる。

https://stps2snwmt.blogspot.com/2013/03/blog-post_3494.html


このエリアでは、読図の山もやったし、雪もやったし、沢もやったし、アイスも登った、ロングルートのラッセル三昧の金峰山もこなした。

そこで、つまり、こうした金峰山エリアへの愛‥‥段階的なステップアップがあって、故・吉田和正さんと登った昇仙峡のクライミングが、意味を持つのである。











故・吉田さんとのクライミングは、ケーキのイチゴである。

一つの山のエリアを愛する、というのは、そういう縦糸を紡ぐことであり、100名山やワールドツアーというような、スタンプラリーとは異なる。もちろん、他の山、他の岩場を知ることで、ホームの山、ホームの岩場の価値も分かるようになるから、どちらもいるが、深く知るということを捨て去っているのが、グレード一点豪華主義クライマーたちだ。

その時どきで、ふさわしい山というのが、そのときどきに与えられることに、喜びと、運命の不思議さを感じながら、登るのが山だ。

みんなの山は、なんでそうなっていないのかなぁ…それが不思議。

たぶん、そもそも、生きている土台が、何か全く違うところに基づいているのだろう。

■ 山梨時代は一体何に守られていたのか?

私は、2009年以降に山梨に来たので、クライミング史をリアルタイムで生きていない。

だから、全くその嘘と虚構を知らずに済んでいた、というのが山梨時代の真実なのでしょう。

でも、さ~ 嘘と虚構で固めて賞賛を得ても、ですよ?

そのことは自分にはバレているわけで、そんなんで自信になるんかいな?

■ そんな自信のない君たちを救いたいよ?

これは、セルフコンパッションのクラスの主催者からのお知らせだ。

ーーーーーーーーーーーーーー 中尾さんのFBよりーーーーーー
<セルフコンパッションを育む8週間 0回目 オープニング>

自分らしく生きるためには、休み方を学ぶ必要がある。
私たちは教育やしつけの中で、自分に厳しくする方法ばかり教わってきた。
もっと頑張れ!もっとできるだろ!大丈夫、お前ならできる!
という励ましや声援を受けて育った私たちは、自分自身に対しても同じように接する。
これを自己奮励という。
これがダメなわけでも、悪いわけでもない。
自己奮励はパワーを生み出し、空を飛ぶための翼になる。
これがパワーの翼。
だけれども、鳥はずっと飛び続けることができない。
必ずどこかに止まって休む必要がある。
自分らしさの羅針盤を合わせて、推進力を養う。
ここをラブの止まり木という。

私たちはそのラブの止まり木を学んでこなかった。

頑張ること、忙しいこと、困難に立ち向かうことばかりを良いことと教えられてきたから
心が、身体が悲鳴をあげるまで休むことをしてこなかった。
だから、いつも苦しさが常に隣にいた。

セルフコンパッションは自分を甘やかすわけではない。自分勝手に振る舞うわけでもない。
自分らしく生きるために必要なエネルギーを養い、自分らしさの羅針盤の針を合わせてくれる。
このラブの止まり木を学び、使いこなすことができれば
心や身体がダメになる前に、休み、またパワーの翼で飛び立てる。

また8週間を共に旅する仲間に出逢えた。
自分自身が、仲間たちがどんな体験を通してセルフコンパッションを育んでいくのか。
それが楽しみでならない。

今回はオープニングということで簡単なワークの実践と説明だけだったのに
多くの人が共感の世界に引き込まれていました。
ほんと不思議な時間がただただ流れていく。

ネガティブな経験を無かったことにしたり、隠したり、抑圧したりせずに
ただただ、あるがままにそこにあることを認めてあげる。

たったそれだけで、何も解決はしないのだけれども、心が満たされて余裕が生まれる。
場が和む。
たった5分でも、30分でも良い。

今まで外側ばかりに向けていた意識を、優しく自分自身に向けてあげると思ってもいなかった宝物に出会える。
奇跡がはじまる。

ほんとうに共感は心の護心術。
仲間たちとともにゆっくりじっくり学んでいきたいと思います♪
ーーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーー

休み方を知らないと、強制終了が訪れます。

一つは鬱。一つは死、です。

私は倉上慶大さんは、ラブの止まり木を学ばなかったために死んだのだと思うんですよね…

後でどんな山に行く予定だったのか分かったんだが…

https://www.climbing-net.com/news/ryushin_20240928/

心臓悪い人に高緯度の山って…。そりゃハンデにさらにハンデをつけ足すような山だと思わなかったのだろうか…。どういう経緯でグリーンランドだったのかは知る由もないが。

もっともっと…

5.14という高難度で、RやXを登っても、もっと上を目指せと、許されず、もっと、もっとと要求され続ける…ということの

 絶望感


これと同じものが、私が鬱に陥るときの絶望感なんだが…

これは、みんなには共感できない部分なんだろうか?

まだ10代なら、自分はまだまだ成長期にある実感があって、5.15でも、5.16でも登れそうな気がしているのなら、絶望もしないかもしれないが…

これは、バレエでも見た光景だ。3歳から踊りはじめ、親や先生の期待をいっぱい受け、やれ、三羽の白鳥だ、今度はオデットだ、次はオディールだ、留学だとなっても、大体みんな18歳でやめます。エトワールにはなれなかった、から…。そして、二度とバレエに戻ってこない… 深く傷ついたからです。お前は才能がない奴だと。あんなに大好きだったバレエなのに…。

でも、大人からスタートしたバレエダンサーなら、最初から競争のスタートラインにすら立てていないので、全く無関係に話は進んでいきます。

私は19歳で駅前の小さなバレエスタジオからバレエを始め、20年続けました。途中、アメリカでもクラスを取ったし、メルボルンでもクラスを取りました。本場おフランスには初期のころに行って、オペラ座でバレエ鑑賞し、最盛期でバレエレッスンは週4,5クラス取っていたので、本職のバレエダンサー並み(毎日)とはいかなくても、ダンサーみたいな生き方でした。そんな生活をしているOLさんは大阪には一杯います。福岡にもいっぱいいました。

大阪ではバレエスタジオミューズの先生だったので、その先生の名前を出すと、東京でもスターダンスバレエ団の男性の先生が良くしてくれ、福岡でも、ああ、ミューズの人なの~というわけで良くしてくれ、最近は、誰が先生か?とも聞かれず、プロでヨーロッパで踊ってきた先生からも、分かってるね、扱いでした。14年ぶりにレッスン受けましたが。

先生たちの様子から、内輪。また、いつでもおいで~状態です。初心者の人だと、もう~分かってないなーってなります。今コンテのクラス、探していますが…

バレエとクライミング。クライミング界では、普通に、普通の人が、エトワールを降りて、自分の等身大のクライミング人生を生きることがなんかできていないような?

それは、クライミングがマネタイズできないからではないか?と思いますが…。だって、スポンサーされても、スポンサー本人も何で収入源にするんです?

やっぱりクライミングを教えたり、ジムを運営したり、と、自らクライマーが工夫して、何かマネタイズしないといけないのでは?

ちなみにバレエ界では、お教室運営が基本的には、王道です。そこから、また強い選手が育っていけば、指導者としての名声が待っています。

しかし、そのせいで犠牲になっているのは子供で、早すぎるコンクール出場で体をダメにしてしまうために、肝心の18歳で、他国のダンサーとの競争に負けてしまうっていうのが、日本の規定路線です。

日本人は早期教育に詰め込みすぎるのです。ほとんど親とか先生とかの執念みたいになっています。これでは国内競争に勝てても、国際競争に勝てない。

思えば、我が母も、幼稚園お受験、小学校お受験、中学校お受験、と私に期待だけはよせたくせに塾には行ったことがないのでしたが…ほんと塾なんて行かなくてよかった☆ 

いっていれば、自分で考える、という最大のギフトは得られなかったでしょう。

たぶん、ユージさんも、倉上さんも、若い間に海外に出て、日本型の詰め込み教育から逃れたことが勝因なのではないかと思います。

才能はつぶすのではなく、育成しましょう。




2024/08/12

【瑞牆研究】その② おすすめ入門ルート

瑞牆山、ジャイアントジャムサンド

どうステップアップしていくか?どのルートなら初心者でも安全に登れるか?っていう

ルートの選択

が主に、クライミングガイドの役目。

登山のガイドでも、同じで、お客さんが、「〇〇岳に登った」、というのであれば、「次は〇〇が登れますね」と、案内します。

先日は、立山で、劔に登った人には、鋸と鶏冠山を勧めておきました。甲斐駒だと簡単すぎて、すぐ登れてしまいます。

2024/08/11

【瑞牆研究】その① スポートではない”瑞牆プライド” ーフリークライミングの原点

■ クライミングネットより引用

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瑞牆山のルート開拓は、1970年東京ハイピーク・クラブによる、大ヤスリ岩の初登に端を発する。

その後、十一面岩、カンマンボロン、大面岩などのおもだった岩に最初のラインが引かれるのが1975年

70年代後半には多くのフリークライミングを意識したルートが拓かれる。そして1981年、戸田直樹によって十一面岩末端壁の「春うらら」1ピッチ目がフリー化され、5.11bがあたえられる。これを皮切りにフリー化、またはフリーを中心とした新ルートが数多く拓かれる。

1983年にはその後人気ルートとなるベルジュエールが、1984年には懸案となっていた「春うらら」2ピッチ目に戸田が成功、5.12aがあたえられ当時の最難ルートの1本となる。

その後、奥秩父のメインエリアの座は小川山に移ることになるが、この地を愛するクライマーによって地道に開拓は続けられていった。1989年にはカサメリ沢がスポートエリアとして開拓され、瑞牆も小川山と同じ道をたどるかに見えたが、開拓も含めクライマーの流れはあくまで小川山が中心であった。

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■ まとめ

1970年代前半 エイドクライミング時代 (50年前、今の70代が20代のころ)

1)1970年の東京ハイピーク・クラブ大ヤスリ岩の初登(エイドクライミング)

2)75年、十一面岩、カンマンボロン、大面岩 (エイドで開かれてフリー化されたエリア)

1970年代後半 70年代フリークライミングを意識したルート (エイドで開かれ後フリー化)

1980年代~ フリークライミング時代 (40年前、今の50代が10代のころ)

1981年、戸田直樹によって十一面岩末端壁の「春うらら」1ピッチ目がフリー化(5.11b)

1983年 ベルジュエール 人気ルート

1984年 「春うらら」2ピッチ目(5.12a)=当時の最難ルートの1本

奥秩父のメインエリアの座は小川山に移る

1989年 カサメリ沢がスポートエリアとして開拓 (スポートは開拓しないことが大事ですね)

瑞牆も小川山と同じ道をたどるかに見えたが、開拓も含め、クライマーの流れは、あくまで小川山が中心

近年、ボルトを使わないトラッド志向のルート開拓が見直され、この地でも実践されている。

瑞牆は小川山とは違う、フリークライミングの原点を意識した発展をしていくべきだろう。

瑞牆で初オンサイトした当方…スポーツクライミングをやっていないへたっぴなのに、瑞牆で一からコツコツしているんですよ~ マジ怖いよ! プロテクションに信頼が生まれていないのに、登れるのは、5.8までです!! スポートなら、5.11まで登れます。