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2023/01/17

為末大 アスリートのセリフ

■『諦める力~勝てないのは努力が足りないからじゃない』

を読みました。 https://amzn.to/3QI4zOy

為末さんみたいに、競技人生から人生のエッセンスを語ってくれる人、登山界になかなかでないですね…。

■ 為末語録 1 勝てなくて申し訳ない = 罪悪感

 
 クライミング界で

お気の毒人材NO1は 野口選手ですよね…

しかし、実は、私は

父親が元クライマーで息子にクライミングを…という2世にも人によっては、

 気の毒感

があります。私も「チャングム、母の仇をとっておくれ」路線で育てられたからな~

子どもは親を喜ばせたいので、子供本人の望みなのか、親の望みなのか?分からなくなるんですよね。

私の母は、私が常に100点を取るので、95点だと怒るし、高校ではビリになったのに、厳しくしさえすればいいと思ったみたいでしたが、どうあがいても、超えれない違いはあります。

15歳の人と、50歳が同じ成長スピードで成長したら、その50歳の人は、人間じゃないです。

私は普通の人間でいるのしかしたくないし、できないんだよな~と思うんですよね。だからって私が悪い訳じゃない。ごく当然です。

5.12登りたいのかなぁと自分に問い合わせてみましたが、必要となる努力の大きさと比して、ご褒美が小さすぎて、結構どうでもいい、という目標だということが分かりました。

■  コーチを吟味しましょう

 

この感覚で言えば、九州にはまともなコーチはいません。樋口先生が例外かな。

山岳会の先輩やベテランと自称する人をうのみにするのは辞め、適当な書籍や、古い岳人を参考にしましょう。

俺の言うとおりにしたら登れるようになる、という人は、個性の違いを見極めきれない人です。 

大人になってクライミングを始めた現代の初心者に、18歳大学生男子と同じ指導法では、体が壊れてしまいます。

■  身軽にしておく

生きていくために必要なサイズを小さくしておくというのは、どのクライマーにも有効です。

大体生活ってどんどん大きくなっていきます。 これだけしかかからないのか~となるのを目指したいところですね。

■ 死を見つめる

結局、

  本当は

どう生きたいのか?ということが問題になるということです。死を前にすると。

死のマイルドバージョンが、老い、です。

結局、白亜スラブのようにクライマーの子守りをしながら自然と戯れるのより、山として、価値がないとされている標高100m程度の里山で、マウンテンバイクに乗っている方が、私は楽しいみたいなんですよね…。

インスボンでは、登っていなくても、普通にインスボン周辺の山を歩いているだけで幸福でした。けっこう実証されました。あれ、相方は30回も通っていても、全く周辺の山は無知だったので、なんか明らかでしたね…。

ここまでの私のクライミングは、

  お付き合いクライミング、

です。お付き合いクライミングで、これだけ成果が上がったのだから、万々歳ですね。

しかも、誰も私の行きたいクライミングには、お返しでお付き合いはしてくれないので(笑)。

アイスクライミングはしたいと思いますが、子供のころ、アイススケートは好きだったけど、ローラースケートはダメでした…なんせ道路で転倒するのは、大怪我するでしょう?

岩と氷の差は、小さい時から明らかだったのでした。

死をまじかに感じることで、人は、自分が本当に自分の人生を生きたのか?どうか?ということについて身につまされるものだと思います。

まず自分の人生を生きて、それから、人のこと、です。

自分の人生を生きる前に、人生が手遅れになり、あるいは、手遅れになったと思ってしまい、代わりに子供に、遅れを取り戻してもらっちゃおう、というのが、子供に自分のなりたかったものを実現してもらう親です。

そういう風な親をもってしまうと、子供は20代にはすっかりレールの上に乗っかっており、別の道を選ぶために使えるゴールデンエイジ(8~18歳)を自分の道を作るためには使っていないということになり、多大な足かせを引きづることになります。

たとえ、そうなってしまったとしても…、いつの年齢から気が付いても、

自分の人生を生きる

ということの課題から目を背けなかった、という栄誉は残ります。

最近の私の成果は、

 分子栄養学 & MTB

です。クライミング時代は

 アウトドア好きの発見 & 外国好きの発見

でした。元々の資質に

 読書好き & 語学堪能 & 体が柔らかい & 習得がなんでも早い

ってのがあります。

2022/03/28

スポーツと縦社会

 今日の為末投稿 マジ癒されるわ~。私が作りたい社会は、GCHで見た、和気あいあい登る姿です。

マウント取っている人は韓国人で、マウントされている人は友人の日本人クライマーでした。

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引退してスポーツを離れて良かったのは、スポーツを嫌っている人や、憎んでいる人、やっていたけど傷ついている人がこんなにいたのかと気付かされた事です。おそらくスポーツの世界だけにいたら、スポーツが好きな人と、スポーツによって成功体験を持つ人との接触が極端に多かったと思います。

そもそも私の人生は少し特殊でした。特殊だということに気がついたのも、引退して違う競技の方と話したからなのですが。小学生時代は読書部というところにいて週に一回図書館で本を読んで読書感想文を出すということをやっていました。足が速かったので社交的でクラスのリーダーっぽくはあったのですが、母親はいつも性格の第一番目を「繊細な子」と言っていたので、内向的だったんだと思います。運が良かったのは陸上部の先生が最初に「陸上競技と運動力学」という本を貸してくれたことです。「スポーツは科学であり、合理性を追求すれば強くなる。先生は合理性を追求する同士であり、あくまで走るのは僕だ」という考えがまず生まれました。

先生に対し意見を言って、議論することが当たり前で、自分の目標は自分の目標シートに書いてそれをもとに先生と1on1でディスカッションして目標を決めていました。権威に屈するという感覚が皆無なまま高校時代もその性格を許容されました。先輩に敬語を使ったこともありませんし、中学時代は先生にも敬語ではありませんでした。おかげで世界大会で一番偉い先生に(今一番尊敬している先生ですが)ペットボトルを投げつけるなど大変問題のある選手になりましたが、それもおおらか?に陸上界には許容されました。少なくともスポーツが嫌だなと思ったことは一度もありませんでした。

ただ、スポーツ界にいたので横目で怒鳴っている長距離の監督や、大変な縦社会がある球技を見ていてあれだったら絶対やっていないなと思っていました。まるで違う世界を生きているようなそんな感覚すらありました。

スポーツは素晴らしいと感じることや、スポーツを楽しむことに引け目を感じる必要はないと思いますが、人生のスポーツ体験でひどい思いをして距離を置いたそんなに小さくない集団が「スポーツ最高」と言っている私たちを冷ややかに見ていることはきちんと理解する必要があると思います。もちろんその理由は様々です。特に多いのは体育の授業で嫌いになったという人です。これは現場の教員に努力してもらうこともありますが、学習指導要領のあり方にも踏み込まないといけないかもしれません。また体育会系特有の上位下達、群れ意識、マウントを取る感じが嫌だという方もいます。多少弁護するとどこの世界も中途半端なレベルほど群れやすいのですが、スポーツ界全体にそういう特徴があるのはおっしゃる通りです。

既存のスポーツシステムはスポーツ好きも生みましたが、スポーツ嫌いの方もたくさん産んできました。人間には好き嫌いがあるので、みんなが好きになることはありえませんが、ニュートラルな人間やましてやスポーツが好きだった人間を、スポーツ嫌いにさせてしまうことは大変な問題です。スポーツはいいやという方はそのまま嫌なことをしなくて良く、やりたい人が伸び伸び楽しめる環境を作る必要があります。

スポーツは社会の価値観を増幅させる機能があると思います。ということはスポーツ界が社会のあるべき姿を想像してそこに向けて変わっていけば社会を変えることもできると私は信じています。できるだけ多くの子供にスポーツは楽しいと感じ生涯に渡りスポーツをしたいと思ってもらい、本気で勝ちにいきたい子供はその可能性に制限をかけない形を模索する必要があります。今のスポーツの形を一旦とっぱらい、本来あるべき社会の形はなんなのかからスポーツを始めたいと思います。

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