■ 中尾佳貴さんのセルフコンパッションワークショップ
■ 危険予知=感じること
クライミングは、危険な行為です。
登山も当然ですが危険な行為です。
というか、冒険っていうのは、全部、危険。
だから、一番大事にしないといけないのは、危険の予知です。
危険予知ををおろそかにした冒険の結果は、遭難事故多発。
日本では毎年過去最高を更新している遭難の記録…
感じること、をおろそかにし、感じないでただ山頂を目指すとか、感じないでただ終了点を目指した結果、そういうことが起る。
■ 危険を感じよう=怖さを感じよう
山の中や畑にいると、
Doing よりBeingが大事… 何をやっているか?より、どうあるか?が大事、と言われているそうです。
クライミングも同じだなと。
Doing=やること、Being=あり方。
クライミングから、Beingを抜き取って、つまり、感じることを抜き取って、Doingだけ、やることだけ、達成だけにしてしまったものが、スポーツクライミング。
なので、そこには、
スポコン
はあるが
恐怖を感じる、ということがない
そのため、
リスクをコントロールする発想
がない…
それをBeingのほうがDoingより重要である、自然界に持ち込むこと
=アウトドアで、インドアクライミングとな時ことをしようとすること、
なのですから、事故が増えるのは当然の帰結ですね。
■ 事例
それが
死の危険
になるのは、そりゃ当然だよな~と思った。
私が、死の恐怖におびえ、父に殺されかけた2歳児のトラウマを思い出さなくてはならなくなったのは、(リスクに敏感であること)を大事な価値観として登っているクライマーだからです。
リスクに敏感であるクライマーは、命を大事にするクライマーであり、リスクに無頓着なクライマーは、命を粗末にするクライマーですね。
リスクに敏感であるということは、自分の怖いという感情、第六感的な怖さ、を大事にすることです。具体的な理由は分からなくても、その感じがしたら、避けるのが、
山で命を守る
この行動の対極は、雨合羽を持っていたのに、寒さを我慢するだけで、着なかったために、低体温症で死んでしまったトムラウシみたいな事故です。
体はちゃんとあなたに危険だよ、服を着て!と言っている。なのに、その身体感覚、体からのメッセージを無視した結果、起こったのが、低体温症による行動不能。
山でリスクを感じたら、それは、体からの何かしろ!ってメッセージです。体が行動を促してくる。
クライミングなら、リスクを感じたら、セルフをもう一本余分に取りましょう。
クライミングパートナーにリスクを感じたら、その人とはリスクのない活動だけを一緒にしたり、そもそも登らないなど、何らかの手を打った方がいいですね。
いやはや、ほんと、クライミングで命まで持っていかれても、相手は
クライミングは自己責任
とか言って、自分の責任を転嫁して、責任を取らず、本来は刑務所に入らないといけないような他殺まで、仕方ないね、って言われておしまいなのが、クライミングをすることの現実です。
クライミングの初期に、こういうことを理解して、気を付けないといけませんね。
山のリスクは、自己コントロールできるけれど、人のリスクは自己コントロールできません。
まず、相手がクライミングにおけるリスクや救急救命法、ロープワーク、登山計画を立てること、などを軽視していたり、他人のふんどしで相撲を取るような行動をする人だったら、用心するというよりは、回避したほうがよいかもしれません。
■ 二ーバーの祈り
私たちに変えられないものを受け入れる心の平穏を与えて下さい。
変えることのできるものを変える勇気を与えて下さい。
そして、変えることのできるものとできないものを見分ける賢さを与えて下さい。
リスクを無視し、怖くてもツッコむのがクライミングだ、というクライミング文化は、変えられないもの、ではありません。
リスクを直視し、そのリスクを技術で上回るように登る、というクライミング文化を作ることも可能です。
怖いときは、危険を知らせているのだ、この課題が怖くなくなるよう、技術を磨き頑張る、というクライミング文化を作ることも可能です。
怖かったらエイドすればいい、というエイド文化を変える勇気を持つのも大事です。
でも、エイドがなくては登れない、女性や、子供、老人には易しく。そういう人を追い立てて、お前は安全マージンが厚すぎるなどと、非難していても、あなたは手が届くから、リスクゼロで、リスクゼロの人から言われるような筋合いではないよなぁ…
変えることができるもの = あなたの心の在り方
変えることができないもの = ほかの人の心の在り方
山梨でも、ニシキタでも、女性に自分より強いのを期待する人いなかったけど、九州では私にリードしてもらって、自分はリスクゼロで、登ってもらいたい人ばっかりでびっくりしたよ?