2019/05/25

自分を信じること=クライミング

■ 5.7のマスターオンサイト

昨日は、5.7をマスターでリードした。リハビリクライミングの一回目だ。

が、一か所、ボルト配置が悪く、ヌンチャクが掛けられず、怖かった。

そこは、やはり、立てるところで、リーチがあれば、普通に立ったまま、手が届いてしまい、2点支持になる前に、プロテクションが取れてしまう配置であった。

つまり、ボルトが背が高い人を基準に打たれているのである。

立体的で、どちらかというとフリーではなくアルパインなノリの課題だった。

ここは、右足を浮遊させないと体があげられなかったので、核心前に、プロテクションが取れず、胴体を岩にこすりつけて、左足と胴体の2点支持で体を保持して、クリップしたが、ハンガーの向きが悪く、やっと届いたのに、クリップしづらいボルト位置だった。

てこの原理でカラビナが岩に当たってしまうのだ。

たかだか、5.7だ。

こうしたことが、ラオスや台湾の龍洞で起ることか?と想像すると、このような羽目に私は、陥ったことがないと思うのだ。

 1)ボルト位置が遠くて届かない
 2)ハンガーの向きが悪くて、クリップしづらい
 3)ハンガー側のカラビナが岩に当たって、てこになる。

そうしたことが、

 たかだか5.7なんだから、登れて当然

ということになってしまっている。

よくよく考えると、これこそが、

 強者の理論、

なのではないだろうか? 強者の理論があまりにも当たり前に捉えられすぎて、実は、

 1)適切なボルト位置
 2)適切なハンガー向き 

という

 課題設置側の、技術課題の克服への障害

になっている。それが、実際は日本の岩場の現実であり、日本の岩場の限界、クライミングの世界の広がりの阻害要因、となっている。

■ グレードは必要だけれども

グレードは目安に過ぎない。

そんなことは、クライマーならだれでも分かっている…。が、実際には、クライマー間で、コミュニケーションをとるのに、グレードは必要不可欠だ。

グレードが無かったら、その岩場のどこから手を付けたらいいのか?分からないからだ。

しかし、5.7と聞けば、誰でも、”5.9よりは当然易しい”と感じてしまう。ところが、実は、5.7というグレード以下の課題は、

ホールドに使える場所が多すぎて迷う

という質でもある。 簡単なルートと言うのは、どうとでも登れるという意味であり、選択肢が多すぎるというのも、逆に初心者のクライマーには、迷って登りにくいということだったりもする。

これはラオスでも同じだった。易しい課題は、ホールド多すぎて、困る。

■ 5.10Aでも…

昨日は、相方は、5.10cを行こうとして断念。 5.10Aでおすすめだった課題があり、それは、私はカムの練習で使った課題だったが、途中の3Dクライミングが、私が登った5.7と似ており、ちょっと感想を聞きたかったので登ってみてもらった。

私には、5.10Aというのは適切なレベルという段階だが、この5.10Aはかなり怖かったからだ。核心部で落ちたらテラスに激突だな~と理解できる上、ピン配置的に、私の身長では、核心前にクリップができない…

5.7と同じ構造だ。

それで、これを登った時は、カムを噛ませて、しかも、湿って、ぬめぬめだったため、カムエイドすらして登った。

この5.10Aは、彼も怖かったそうで、なんだか、納得感があった。

フリークライミングで要求されている肉体的な要求の高さと怖さ、危険は関係がないのだ。

これは、たんに、怖いルート、というわけだ。

5.7でも危険なルートは危険だ、ということだ。

■ いいルートとは?

いいルートとは、どんなルートのことなのだろうか?

登って楽しいというのは、ムーブが面白い、ということだろう。そして、プロテクションの配置が適切だ、ということだ。

クライミングは、フットスタンスが限定されると、そこに立った場合に届く範囲で、有利であったり、不都合であったりする。

そのときに不利な側に立つことが多いと、プロテクションがない訳なので、怪我や命のリスクも同様に高まるわけだ。これは危険でしかなく、楽しいとは言い難いかもしれない。

本来は、適切なボルト配置、で、そうした体格差による不利を排除した設定ができるはずだが、そこは開拓者の人の子であり、何もかも完璧を求めることは、無理な相談だろうということは誰にでも想像できる。

■ フォーラム

海外には、フォーラムという仕組みで、このような一個人のもつ限界を、多くの人の目で評価しあって、サポートする仕組みがある。

そうした仕組みを日本に取り入れるべきだと思うが、日本で取り入れるにあたり、何が障害になるか?

 1)開拓者への敬意
 2)奢り
 3)先輩後輩システム

だろう。開拓者に敬意を表するため、開拓時当時のままに登るべきだ、そうでなければ、登らなければ良い、という意見は根強い。

しかし、それは、拡大解釈されすぎているだろう。

見晴らし岩のような顧みられていない岩場では、歴史も何もない。ただそこに岩場があると気が付いた個人が、適当にボルトを打った、と言うこと以上に、歴史はないからだ。日本の岩場の多くは、そういう岩場であり、歴史的価値(例:日本で初の13が登られた課題)がある課題は多くない。

そして、往々に歴史的価値がある課題は、基本的に有名課題であり、無名の課題ではない。有名と言うのは、その課題名を言えば、クライマーならだれでも、あ、知ってる!と言うような課題のことだ。例えば、小川山レイバックやカサブランカなど。

二つ目は、奢り、だが、これは歴史的経緯による。クライミングと言うことが、一般的に成人男子だけの命がけの活動から、子どものやり、女性もやる、というような大衆化したスポーツになった経緯から、成人男子の体力基準、成人男子の身長基準に合わせて、課題が整備されてきたという経緯は致し方ないだろう。

今後はその基準では危険にさらされる人が出てくるという認知が広がれば良いが、それが広がらないこと=おごり、である。

成人男性が自分と同じ物差しを子供や女性に強いる、ということだ。

これは、一般社会でも同じことが起きている。男性の基準で社会が作られており、女性には、機会も、成果の応報についての公平性も、いまだに平等には、確保されていない。

しかし、こうしたことは、歴史的に見て、時間が解決していく。

確実に女性の社会進出は50年前よりも進んでいるように、男性目線の世界が、縮小傾向にあるのは、あらがえない世界的流れだ。

最後は、先輩後輩システム。これは、先輩が言うことを後輩が聞く、という前提のことだ。

ある種のパターナリズムだが、これは、日本だけの特殊な現象だ。

AさんがBさんより登れるクライマーだからと言って、海外では、AさんはBさんにどこを登るべきかアドバイスはしない。

Bさんはトポを見て、勝手に、これを登ってみよう、と思い、ダメだったら、あきらめて降りてくるだけである。その場合、回収が問題になるが、回収は、懸垂ができる課題ならば問題は通常ないのである。上に歩いて行って懸垂で回収すればいいのであるので。

誰かが誰かの言うことを聞く、ということが前提であるのは、どうも、儒教国に特殊な現象であるようで、それは、経済発展にせよ、世界の進化のスピードに追い付くことにせよ、マイナスの影響がある文化土壌のようだ。

言うまでもないが、自己責任、とは対極の話である。

これを外国の人とのコミュニケーションで想像してみると、アドバイスと命令の区別が非常に明確で、日本では年配の人のいうことは、基本的に目下の者は逆らえないことになっているかもしれない。

アドバイスを受け入れるかどうかを目下の人が選べばよいということで、それで自己責任と言うことになっているが、それもやはり強者の理論のように思われる。

私自身が独善的だ非難されることが多いため、果たしてそうだろうか?と思っているが、外国人とのコミュニケーションで、独善的だと非難を受けたことがない。

目上の人からの押し付けを、私が拒否した場合に、たいていは、非難を受けているので、それは、逆にご自身の独善を私が受け入れないために、攻撃しているのでは?と思う。

日本では、目下の人が自分で選ぶ自由を主張すると、生意気扱いされるということなのだ。

しかし、クライミングで、自己基準、を譲ったらどうなるか?

ひどい目に合うことは確実ですぞ?

最悪は、死ですぞ?

その責任を負える人だけが、目上の人の言いなりになってください(笑)。

私はどんなに自分が不利益を被っても(例えば、君とはもう登らん!など)、決して相手の基準を受け入れて登ることはしないことを新たに怪我の反省点として、心に決めています。

クライミングとは? 自分をどれだけ信じられるか?という活動です。