『山に恋し、そして離れた理由——米澤さんと私』
山との関係が変わった瞬間
かつて九州に来てすぐのころの私は、山に対して深い情熱を抱いていました。登ること、歩くこと、それは単なるレジャーではなく、生き方そのものでした。とくに「誠実に山と向き合うこと」は、私にとって一つの信仰に近い感覚がありました。
そんな私にとって、米澤さんとの出会いは、ある意味で象徴的なものでした。
米澤さんという登山者
米澤さんは、かつて日本でもっとも困難とされた屋久島の「フリーウェイ」というルートを開拓した、70代のクライマーです。私がお会いした当時はすでに75歳を超えていましたが、未だに小さな岩場をひとりで開拓し続けていました。その姿には、尊敬の念しか感じませんでした。
地図にも載っていない場所を、自ら尾根と谷を歩いて見つけ出す——そういう”正統派”の登山者でした。
開拓者として尊敬されている人ですら、すでに岩マークのついた地図を頼りに、目的地へ一直線に向かうなか、米澤さんは「誰にも見つけられていない場所」を歩いて探しに行っていたのです。地形を丹念に塗りつぶしながら。山が好きじゃないとできないですよね。
「その後」の喪失感
しかし、そんな米澤さんでさえ、最終的に得たのは「失望」でした。米澤さんは、福岡に戻った後は九州大学山岳部のOBとして活動し、「タサルツェ」というヒマラヤの小さな山に九大山岳部OBとして初登頂します。けれど、その登山は、シェルパの後をついて歩くだけの行程だったそうです。失望がにじみ出ている記録でした。こんな往年の手管の登山者にこんな山をさせるなんて失礼もほどがある…技術も経験も使わない、ただの「高所遠足」でした。
私はそれを知ったとき、言いようのない虚しさを感じました。
山を「危険だ危険だ」と批判的に言われながらも、登ってきた私…雪崩講習会に出て、山岳総合センターのリーダー講習に出て、誠実に努力し、技術を積み重ねてきたのは、私であって、アラーキーではありません。なのに、得たものは、とんでもクライミングの白亜スラブ。まぁ、もちろん、この後、台湾の龍洞に行って、タオと楽しくマルチピッチを登ってきたのですが。
結局、アルパインって、最終的には「歩くだけのちんけな山」しか登れない——フリークライミングに転身したとしても、掃いても掃いても寄ってくるのは、便乗クライマーだけ…。ランナウト自慢したいだけのクライマーです。
そういうクライマー界の構造そのものに、がっかりしたのです。もう、ぐるっとお見通しだ!って感じでした。
「結局、安全第一の枠の中で、誰もが同じ山をなぞるだけ…」
「誠実な努力も、精神も、発揮される場所が残されていないのか」
冒険とは名ばかりの、スタンプラリーとか、自分に見とれるためのクライミングとか。
そればかりか、俺のクライマーとしての夢、をカッコウのごとく托卵されそうに…。海外クライミングかっこいい!ならあなたがやって。私は、文脈があるところしか興味ないの。
そういう或る意味での攻撃続きだったのが、九州時代でした。それで私は山への情熱を、少しずつ失っていきました。失ったというか、白けたというか、わざわざ自分から遠ざけた感じですね。潜在意識ではすでに知っていたからでしょう。
私にとっての「本当の登山」とは
たとえば、阿弥陀岳北稜を単独・初見で登ったこと。
私の最初の山は西岳です。八ヶ岳でも訪れる人の少ないマイナーな山。そこから初めて、雪の権現に通い、天狗岳に通い、と何度も同じところを通いながら、別のルートを取って、一つの山とゆっくりお知り合いになっていく。いきなり赤岳だけを登頂して、八ヶ岳はもう知ってる、なんていいません。そして、徐々にバリエーションルートに進みました。だから、阿弥陀北稜を登る前に、ジョーゴ沢から硫黄岳を詰めたことがありましたし、八ヶ岳のお中道も使ったことがありました。鹿の団地がどこにあるか、どういうプロフィールの山が八ヶ岳なのか、知ってから、阿弥陀北稜は行きました。ここを選んだのはパートナーなしで登るギリギリラインだからです。つまり、天狗岳を登った私から、阿弥陀北稜までが、取れたのりしろでした。
パートナーがいればもっと難しい山も行けますけど、いませんからね。妥協です。
何年もかけて歩いて、すでに周囲の地形は頭に入っているので、ルートファインディングに迷いはなく、ロープが必要な場面も含めて淡々と一人で登り、静かに還ってきました。途中もたもたした男子は追い抜きました。
狙ったタイミングも例年この日は晴れる、という確信がありました。
濃紺の八ヶ岳ブルーの空の下、白い尾根に私のアイゼンの痕、ステップが規則正しく並び、それが私に「雪山は熟達したな」という実感をくれました。見ればわかる感じです。
山からの返事はただ一つ。楽勝の山でしたし、絶景の山だったのです。
「楽しかったね。またいつでも遊びにおいで。」
私はこの登山を終えたとき、こう思いました。
「私は、山に対して嘘はつかなかったぞ。ちゃんと山への礼儀は果たしたわ。」
私にとって、これが“登頂”でした。正統派の山の継承者としての役目も果たしました。
誰かに証明するものではなく、山との静かな約束の往復だったのです。
山に行かない理由
そうしたオーソドックスな登山のスタイルが、今の主流の中では居場所を失い久しいです。
すでに整備されたルートをなぞり、SNSの「登頂証明」になるような場所へ人が集中していく。
私が大切にしていた「山と関係を丁寧に築く」という行為は、次第に人気を失っていったように思います。今、登山って、ただの商業主義ですよね。
結局、私は、「トラベリングクライマー」にもなる気になれませんでした。
なんせ、20歳で日本を飛び出して、働きながらアメリカで暮らしたんです。しかも、暮らした場所、ミッション地区。車の運転は、アメリカではじめてやりました。
そんな私が、岩場スタンプラリーして楽しいと思います?あるいは、俺ってかっけーの登攀。
他人が設定したルート、他人が評価する到達点に、私の心はもう動かないのです…。
あー、ツマンね。お金が減るだけじゃん。
それで選んだのが、集客に苦しんでいる地方行政に、岩場の存在をお知らせするって活動でした。
しかし、地方行政のほうも、カッコウの托卵のごとく、自分の責任を、他社に托卵させようとしてきますよね。
なら、あなたやって、って。自分の仕事だろ、おいコラ!って感じでした。ちゃっかりしているってことです。
まぁ、よく考えると、日本中が、ちゃっかりしている人とそれを許している人の共依存で成り立ってきたのですから、本人は悪気がないのは、心理学を勉強して分かるようになりました。
ああ、疲れた。
でも、だからといって山が嫌いになったわけではありません。
むしろ、ようやく私は山の中で「ただ遊ぶ」ことができるような状態なのです。
子どもの頃、遊ぶことを許されなかった私にとって、山梨で過ごした7年間に八ヶ岳の尾根に通ったことは、人生で初めて「心から遊べた記憶」となりました。
そして、その八ヶ岳が言ってくれたあの言葉。
「楽しかったね。
またいつでも遊びにおいで。」
——私は、きっとまた、老後にでもあの稜線に戻って楽しく遊べる日が来るでしょう。
しかも、それは、自分のなかの「父性」や「遊び心」や「誠実さ」とつながるという遊びでした。承認欲求の山ではなく。だから、もう満足した。
足るを知るってこのことです。承認欲求の山をしている人は終わりがないです。
これから
いま私は、山から学んだ「誠実さ」「探究」「対話」の精神を、心理学の旅に重ねながら生きようとしています。
登らない山、山に登らせてもらう心、そして問いという尾根の連なり。
すべてが、人生という別の尾根を歩くための初歩訓練だったのかもしれません。
山に登っていなくても、山で教わった在り方は、私のなかに確立しています。
それこそが、山がくれた最大のギフトです。そのギフトは、どうも、ピオレドール賞を手にしたとしても、手に入れることは難しいもののようです。
だから、それで十分なのだと、最近、思うようになりました。
山からの本当の贈り物は、俺だってできるという薄っぺらい自信、とかじゃないんですよ。
そこから先の答えは、皆さん、各自、それぞれが探してくださいね。