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2025/03/18

【物語療法】絶望の戦士 カイ 現在の私

 

「岩場の終焉」

兵士のひとり、カイは、その日、ひとりで山の奥に向かって歩いていた。

彼は長年、クライミング界のために働いてきた。
地主に頭を下げ、自治体と交渉し、クライマーたちにマナーを守るよう説いてきた。

だが、赤鬼たちは変わらなかった。
開拓者は、また別の岩場を求めてどこかへ消えた。
クライマーたちは、新しいルートが開かれるたびに歓喜し、アクセス問題には目を向けなかった。

カイの頭の中には、地主の冷たい言葉がこだましていた。

「もう無理です。クライマーは信用できません。登るなら、他を当たってください。」

それだけじゃない。

「あなたがどんなに頑張っても、意味がない。」
「ルールを守る人間がいても、一部のバカが壊せば終わりなんです。」
「あなたが説いていることは、誰も聞いていませんよ。」

……そうだろうな。

カイはゆっくりと岩場の縁に立った。
見下ろせば、かつて仲間たちと登った壁が広がっている。
今はロープも支点も撤去され、荒れ果てていた。

あの頃は、希望があった。
登ることが未来につながると信じていた。

だが、今は?

クライミングのために戦ってきたが、彼が守りたかったものはもうどこにもない。

彼が見てきたのは、ただの幻だったのかもしれない。

「……俺がいなくなっても、何も変わらない。」

風が吹いた。
ロープのない壁は、どこまでも深く、どこまでも静かだった。

「カイの終わりなき墜落」

カイは登れなくなった。

はじめは疲れているだけだと思った。
長年、クライミング界のために奔走し、赤鬼たちと戦い、地主に頭を下げ続けた。
疲れがたまって、心が折れかけているだけ――そう思おうとした。

だが、体が動かない。
指がホールドにかかっていても、腕を引く力が湧かない。
足が岩を捉えていても、押し上げることができない。

「登れない…?」

岩場に来ても、ギアを手にしても、ハーネスを締めても、
登る気力がわかない。

それどころか、岩を見ると、ひどい吐き気がこみ上げてくる。
自分の登りを応援する声が、嘲笑に聞こえる。
「頑張れ!」
「登れるよ!」
「お前ならいける!」

違う。
そんな言葉、もう聞きたくない。
何も分かっていないやつらが、何も考えずに岩を登る姿が、何よりも痛かった。

カイは、ただ岩の前に座り込んだ。
登りたいわけじゃない。
でも、ここに来ることをやめると、何かが完全に終わってしまう気がしていた。


🔹 眠れない夜

夜になると、カイの頭の中には無数の言葉がこだました。

「お前の努力は無駄だった。」
「クライマーたちは、結局好き勝手やるだけだ。」
「お前がどれだけ守ろうとしても、もう手遅れだ。」
「アクセスは失われる一方だ。お前は何のために戦ってきた?」

布団をかぶっても、頭の中で声は鳴り止まない。
夜が恐ろしかった。
眠ることができなかった。

朝になれば、また何事もなかったように仕事をする。
いつものように、笑って、淡々と岩場のことを話す。
でも、それはただの演技だった。


🔹 クライミングギアの重み

ある日、カイは、久しぶりにクライミングギアを手に取った。
ビレイデバイス、クイックドロー、スリング、ナッツ、カム。
どれも、かつての彼の人生そのものだった。

だが、今はどうだ?

「こんなもの、何の意味がある?」

カラビナの冷たい金属が指に触れる。
静かに、それを握りしめる。

ロープを結ぶ手順は、何も考えなくても体が覚えていた。
無意識に、ふと、ハーネスのループにロープを通す。

「……これで全部終わらせられるのか?」

ハーネスに結んだロープを見つめながら、カイは深く息を吐いた。
足元には、長年登ってきた壁が広がっている。
「もう一歩踏み出せば、俺は自由になれるかもしれない。」

「これ以上、登れないなら…」

そう思った瞬間、風が吹いた。
木々が揺れる音が聞こえた。

カイは目を閉じた。

かつて、自分が愛したクライミング。
あの感覚を、最後にもう一度だけ思い出そうとした。

だが――何も浮かばなかった。
カイの中には、ただ虚無が広がっているだけだった。

「水のような存在」

カイは、静かに座っていた。
もう岩を登ることはない。
クライミングギアはどこかに放り出したままだった。
ロープも、カラビナも、クイックドローも、今の彼にはただの金属の塊にしか見えなかった。

風が吹く。
葉が揺れ、木々の間から差し込む光が揺らめく。
水の流れる音が、遠くから響いていた。

その存在は、いつの間にかそこにいた。

彼女――いや、何者なのかは分からない。
まるで、光が形を成したような、
あるいは、冷たい水の雫が人の姿になったような、
そんな、どこか現実離れした存在だった。

彼女は何も言わなかった。
ただ、そばにいた。

カイは、それが不思議だった。
誰かが励まそうとすれば、苦しくなった。
誰かが叱咤しようとすれば、怒りが湧いた。

けれど、彼女は何もしなかった。
話しかけもせず、慰めもしない。
ただ、そこにいた。

それが、どこまでも安心できるものだった。


🔹 水の冷たさ

カイは、彼女が歩くのを見た。
彼女は、川のほとりまで行き、ゆっくりと膝をついた。
指先を、水面に触れさせる。

カイも、無意識のうちに立ち上がり、その場へ向かった。
足元の土は冷たく、草は柔らかかった。
水の流れは、透き通っていて、岩の間を音を立てながら流れていた。

「冷たいよ」

彼女が、そう言った。
カイはためらったが、手を伸ばし、水に触れた。

確かに、冷たい。
けれど、それは鋭い冷たさではなく、心を鎮めるような感触だった。
指先から腕へ、ゆっくりと冷たさが広がる。

カイは、ふと深く息を吐いた。
その吐息が、自分の中にこびりついていた重さを、少しだけ押し流した気がした。

彼女は微笑み、再び何も言わずに水を見つめた。
カイもまた、ただ、水を眺めた。


🔹 美しさの中で

それから、どれくらいの時間が経ったのか分からない。
彼女は、どこかへ行くでもなく、ただその場にいた。
カイも、急ぐことをやめた。

太陽が傾きかけた頃、彼女がふと立ち上がった。
静かに歩き、花の咲く方へ向かっていく。

カイもまた、ゆっくりと足を動かした。

そこには、淡い紫色の花が咲いていた。
小さく、繊細で、それでいてどこか力強さを秘めた花。

彼女は、その花を見つめ、手のひらをかざした。
その仕草があまりにも美しく、カイは言葉を失った。

花の薄い花びらが、風に揺れた。
夕陽が差し込み、草の間に淡い光が落ちる。

カイは、なぜか分からないが、ただ静かに目を閉じた。

風が吹いた。
水の音が遠くで響いた。
冷たさが、心の奥に染みわたっていった。

その瞬間、カイは気づいた。

彼は、まだ、生きている。


彼女は何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
それだけで、カイは少しずつ回復していった。

クライミングをすることは、もうなかった。
けれど、カイの世界は、確かに変わり始めていた。