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2022/12/03

執着に値するものはなにもない

■スマナサーラ長老の初期仏教Q&A(01 Dec 2022 ゴータミー精舎)

 

■ 長老に相談

長老の見解は、私が自分自身で下したものと、大まかに言って同じだったので、裏付けをもらったようでホッとしました。

長老の深いため息が、私の気持ちをとても如実に表現していて、とても深い部分で、共感されたというか、そんな気がします。

問題から逃げないこと。

これが、私がこの世で後世に伝えたいものなのかもしれません。

わずか6歳の女の子にもできたことなのですから…きっと皆さんにもできます。

アルパインクライミングにおいては、38歳で山を始めた人にも、数年で阿弥陀北稜程度はソロで登れるわけですから、みなさんにもきっとできます。

フリークライミングにおいては、41歳で始めた人にも46歳で海外へ一人で行ってクラック登って帰って来れるわけですから、みなさんにもきっとできます。

■ クライミングにも同じように向き合いました…

問い)現実に向き合うとは?

答え)山岳総合センターでクライミング技術を学ぶ

 山岳会が廃れていることに気が付き、独学する

 クライミングガイドから学ぶ

 ボルトの安全性を自分で確認する=カットアンカー事件にも気が付き、

 クライミング教育の不在に気が付く=UIAAのスティーブ・ロングさんに「アルパインサマー」の出版依頼をする… 

つまり、向き合うとは、そのような行動を起こすこと、です。

ただ、私としては普通のことをしただけですので…。九州のみなさんが嫉妬するには値しません。

別に山梨は特別良い環境ではありません。チャンスがゴロゴロと転がっていても、勉強していない人の手からはスルーされます。

■ 突き抜けた人のブログにヒットしました

今日はこちらのブログにヒット。

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 『なんだよこれは!?』

って思うくらい気持ち悪いくらい、ちやほやされるわけ。

そうするとすぐ調子に乗っちゃって。

20代だから。


20代でそんないっぱい売り上げて。

代表になってテレビ出て。

いろんな人が寄ってきて。

ものすごいいろんな電話がかかってきて。

持ち上げられて。


そうやっているうちに、

誰がいい人で誰が悪い人か、全然わからなくなった。

 

今考えると、下心のある人がいっぱい現れてたんだよ。

それと、妬みで陥れようとする人がいっぱい来た。


そういうのだらけになっちゃった。

ーーーーーー

これだな。福岡で私に起こっていたこと…。

私の成果だけを、トンビが油揚げをさらうように取ってしまいたい、と思っている人が多かったように感じました。

■ もっともっと = 貪欲

 以前学んだバガバッドギーターでは、

もっともっと

の世界、を避けるように言われていました。

良いものは、もっともっと、とならないものなのです。

少量で十分満足するもの、それが良いものです。

ギャンブルにしても、クライミンググレードにしても、得れば得るほど、さらに欲しくなります。

クライミンググレードに関しては、私自身がすっかり満足すると、それを周囲の人は、否定して来るほどの熱心さです…人ごとなのに(笑)。

もっと上をめざせって?上に行きたいと思ってもいないのに?

41歳からやっているんですよ?5.11で何の不服があるでしょう?

すべての人が5.12を登るまでは手綱を緩めてはならないというのは、男性の基準です。それが壮年期男性の最低レベルだから、という理由ですが、そんなの信奉しているのは日本人だけです。

長老の話してくれた塩水のたとえ…

 欲は満たしても満たしても満たし足りない=グレードは上げても上げてもキリがない

です。人は老いるもの。その逆風に逆らって、もっともっととグレードを追いかけるのは、若い時は楽しいでしょうが、大人には、意味がなく、詮無いものです。

■無執着を実践すること

クライミングにおいて、私の”お役目”は、終わったのではないか?と思うのです。

頑張っても、この世に残すもの・得るものは、何もない。

執着に値するものは何もない。

長老からは、逃げなかったことは素晴らしいことだ…と褒められました。

それは、クライミングにおいては、山と向き合う、ということですね。クライミングのリスクに向き合うということです。

その点において、私の、

問題から逃げない

という人生訓は、骨の髄までしみ込んでおり、クライミングでも決して逃げずに、問題に向き合ってきたのだ、と声を大にして言うことができると思います。

誇りに思っています。

■ 人生とは、苦から苦に進むもの… 

私は、苦から苦への進化、…これが受け入れられなかったのかもしれません。

今あるクライミングの苦が、やっと楽になろうかという段階で辞めること…ラオスでは、クライミングは苦ではなく楽です。死ぬ、ということはないフリークライミングのそのままのありようで登れるからです。その”楽”を取っていいものかどうか?理解が困難でした。

ちなみに、日本ではフリーは、容易に死に直結するものとなっていますので、私のようなグレードを登る人で安全に登りたければ、自動的に海外に押し出されるのが現状です。

■人は業の罠(常識外れの渇愛 Avijja)にはめられて、自己管理ができなくなる。

何事も中道が良いというのは、お釈迦様が最初に目覚められた悟りです。

弦を張りすぎず、緩めすぎる、ちょうどよいくらい…

クライミングという活動では、弦を張り詰めすぎている人が多いように思います。いかに張りつめているか?の勝負、となっているような??

そのような在り方に気が付いて、そちらへ進まなかったことは私の強さと言えるでしょう。

■期待して何かを得ても、仲間がそれを壊してしまうだろう…

仏教ですら、偉大なる真理であったとしても、つまり、壊そうとしても壊せないものなのに…内なる仲間から破壊活動をされている…そうです。

仏教ですらそうなのだから、クライミングでそうであったとしても、仕方ないですね。

私がカットアンカーは40年前のものですよ、今のボルト間隔は日本人男性の平均身長にマッチしているわけだから、低身長の人は、より多くのリスクを被るのですよ、と言っても、聞く耳を持たないでしょう…

業界内の自浄作用は期待できないということでもあります。それは仏教においても同じなのですね。

いくら私が母を愛した娘でもその行為は実を結ぶことはないでしょう… 仏教でも同じことなのですから…

そもそも、自分さえよければ後はどうでもいい、という精神でやっているのが、往年クライミングだからです。 

クライミング界の発展とか、日本のクライミングが世界と比べておかしな方向にガラパゴス的に発展していることとか、あまり眼中にはないでしょう…

しかし、私は別にクライミングには恩も借りもないのです… むしろ、私のほうが様々なものを提供してきた気がします。

執着に値するものはないもない…と開き直ることが大事みたいですね。

愛着を捨て、使ったら捨てる、ということだ、というアドバイスです。それがこの5年間でなかなかできなかったことでもあるでしょう。

■ 義務を果たしてサヨナラ

義務を果たしてサヨナラ、義務を果たしてサヨナラ…

これが、私が唱えるべきマントラなのかもしれません。

しかし、今日は、私よりも強烈に同じような経験をして、同じような解にたどり着いた若い男性の話を読み、私のような特殊環境なんて、

 まだまだぬるま湯

と思うことができました。 山納銀之輔さんという方です。私もエコビレッジが作りたいのです。

■ 巨大な欲望

常識外れの渇愛を持っている=クライマーかもしれません。

特にナルシズムが原動力の方。

承認欲求というのは、非常に恐ろしい側面があります。例えば、誰にも馬鹿にされていなくとも、お前は俺を馬鹿にしている!と私がチェーンソーを持っているだけで思うことができるのが男性の劣等意識なのです。私の側の問題ではなく、見ている人の色眼鏡の問題です。

そのように、欲が妄想に巨大化する前に、捨て去ってしまうのが仏教の教えです。

 ■ 異常精神は仏教には、治せない

そのような妄想を持ってしまった心=異常精神、渇愛がコントロールできない人は、無間地獄に落ちるのですが、それは、他に害を犯さないように地獄に押しとどめられるのかもしれません…

異常精神というときに思いつくのは、山岳業界では

 三浦さんや栗城さん

です。多くの人は、彼らが得た名声という富や経済力を基盤にした(だけの)登山結果に、俺だってカネさえあれば、という、羨ましいという思いが禁じ得ないと思いますが、仏教的に見ると、羨ましいどころか、名声を得ることなく、人生をコンパクトに家族の愛で彩ることができることは福音です。自らの幸福を名声のために差し出すことはないようにしましょう。

つまり、それが分からないことは、魂が幼いということです。だれですか?俺だって佐藤祐介と言っていたのは…(笑)。

言っていた人の登攀力を知っていますが、とても5.11だってフリーソロ出来ないと思いますよ?昔の山屋がフリーソロできたのは、5.9なんですから。佐藤さんは5.12です。それだけの地道な努力をされているということなんですよ?

同じことで私が英語が話せたり、海外に一人でポンと出かけれること、あるいは海外でパートナーを見繕って登れることについても嫉妬があったと思いますが…あるいはパタゴニアのウエアを着ていることについてもですね…(笑)。

それは、私が小学校の低学年の時代から、ラジオ英会話を聞いていたから、とか、自分の努力で外資で勤める学歴を得たからとか、そういうような理由です。棚からボタモチなんて、どんなエリートの人にだってあり得ません。実際、私は熊本高校卒ですから、県内では随一の進学校にいたわけですが、クライスメートはみな必死で努力しており、親友は一橋に行きましたが、努力家でした。努力なしで成果を得ているというのは、現実を知らない、甘ちゃんの発想ではないかと思います。

そもそも、パタゴニアのウエアを店員向け割引価格で買うほうが、正規プライスで買うより恵まれていると思いますが?なぜ人を妬んだりうらやんだりするのでしょう?

ま、私も、クライマーにおいては、ウエアは、ボロければボロイほどかっこいい、と思いますが…

■ 執着に値するものは何もない 

確かに執着に値するものは何もないのですが、次の道が見えないと、どうしても手放す気になれなかった…というのが私の弱さかもしれません。