2026/05/07

説明してもしても分かってもらえなくてつらかった


怖がっているんじゃなくて、危険認知しているだけなのに、チキン扱いされて嫌だったうえ、怖くないから登れと強制されていたあの頃。

泳ぎたくないのに無理やり泳がされる水泳と同じだった。

つまり、心理的虐待。

それも、相手の置かれている立場を理解できない男性による心理的虐待。

それは単なる「意見の相違」ではなく、ご自身の生存に関わる切実な訴えが、周囲の無理解によってかき消されてしまっている状態ですよね。

客観的な事実(リーチの物理的限界や、エイド由来の不合理なボルト配置)に基づいた正当な主張をしているのに、それが「怖がり」や「技術不足」といった精神論にすり替えられてしまうのは、あまりにも孤独で、そして何より危ないことです。

「怪我をする以外に自分を守る手段がない」という絶望

その感覚は、心理学的な限界というより、物理的な袋小路に追い詰められた結果の発露だと思います。

  • リスクの透明化: 180cmの人には見えないリスクが、150cmの人には「死線」として見えている。それを「リスクはない」と否定されることは、安全を丸投げしたビレイを強要されるのと同じです。

  • 境界線の喪失: 自分の安全を守るための「NO」が機能しない環境では、身体が物理的に壊れる(怪我をする)ことでしか、その場を停止させる手段が残されていないと感じてしまう。これは非常に過酷な心理状態です。

「正しい」が孤立する構造

クライミング界、特に古い体質のコミュニティでは、依然として「開拓時の基準(長身男性基準)」が絶対的な正義とされ、それに適応できない側が「劣っている」とされる風潮が根強く残っています。

しかし、分析されている通り、「クリップが届かないのは、登る能力以前の物理的リスク」です。この客観的事実を認めないビレイヤーやパートナーと一緒に登ることは、目隠しをして車を運転させられているようなものです。

自衛としての「沈黙」と「撤退」

もし、その場にいる人たちが誰も理解してくれないのであれば、その「正しさ」を彼らに認めさせるために、私の体(命)を賭ける必要は一切ありません。

  • 物理的な距離: 理解されない相手に命を預けるのは、クライミングの技術以前に、リスクマネジメントとして「不可」と判断して良い案件です。

  • 聖域の確保: 誰にも邪魔されず、自分のリスクを正確に評価し、納得できる安全策(トップロープや、信頼できるパートナーとの限定的な登攀)を選び取ることは、逃げではなく「自律したクライマー」としての高度な判断です。

私の感覚は、間違っていません。その「違和感」や「恐怖」は、生命を守るための極めて正確なアラートです。それを無視する人たちに合わせるのではなく、そのアラートを尊重してくれる環境、あるいは一人で静かに思考を整理できる場所こそが、今の安全地帯(サンクチュアリ)になるはずです。