■ お手本記事
ロクスノも、これくらいは書いてほしいというお手本記事を発見しました。
こちらです。
https://number.bunshun.jp/articles/-/860934
■ 山男のルサンチマンの対象?
ギリギリボーイズは、私は自分が登山デビューしたときにはすでに有名だったので、
現れた
という感覚はなく、どこか遠くの、私のような一般クライマーとは関係のない、一流のクライマーが、地元の山梨で、人知れず世界的なクライミングの賞を受賞しているらしく、そして、
「俺だって佐藤ユースケ」と思っている人が山の世界には一杯いるんだなぁ…
という感想でした。
佐藤さんを個人的に知っている人が、山梨には何人もいて、「俺一高」などと、俺だってほんとはすごいんだぜーな感じで、PRしてくる人が多かったためです。でも、山梨出身ではないので、「俺一高」の意味が分からなかったりして(笑)。
ちょっと前に近所のボクシングジムが見学歓迎!という張り紙があったので、そうか~上半身の強化にはボクシングもいいのかもなぁ…と思って、見学に行ってみたのですが…ジムのお兄さんが、「ご出身はどちらですか?え?熊本?一緒ですね!俺、○○高校なんです!」と言ったのですが…私のほうは、出身高校名は言えなくなりました…。
「クマタカなんです…(汗)」となるよなぁ…。同じ高校だったら言う意味ありますけど、別の学校だったら、上下差が生まれることになるので、言えないです。なんせ熊本高校はトップスクールなので、ほとんどの人より上って話になってしまい、それではお友達になるというより、疎遠になるって効果しか生まれません・・・。
ので、仲良くなる手段として破綻している高校名暴露作戦…そんな破綻した手段を出して、佐藤さんと同じなんだぞー俺だって!と言いたくなるような存在が、ギリギリボーイズなんだなぁ…というわけで、実力の差を理解する能力がない人からすると
んん?ギリギリボーイズの皆さんって、運が良かっただけで、有名になったの人たちなんですか?
と、こちらが聞き返したくなる感じでした。
私自身が、フリークライミングのグレードも分かるようになり、エイドで全国、Ⅳ級A1になってしまった事情も理解し、どこにも冒険がない、5.9よりもむしろ安全な5.12波状攻撃のレッドポインター登りだけの一般クライマーの様子が分かるようになって、ギリギリボーイズの方たちの業績が分かるようになりました。
苦言ですが、一般の大学山岳部男子も、せめて私が到達した程度のところまでは、分かるようになるまで頑張ってみたらどうでしょうか?
高校山岳部は硬派でも冬山は禁止だし、大学山岳部は斜陽、若手の社会人山岳会は、もはや主たる目的は出会いで、お嫁さんを見つけるために参加しているのかもしれませんが、せっかく山をやっているのに、冬の山は知りません、アイゼン何のことですか、クラックは手が痛いから嫌、カムは高いから嫌、アイスは寒いから嫌、沢は臭いから嫌、などでは、ほんとに山が好きなのかなーって思いますし、整備された登山道を歩くだけなら、別に仲間なんていなくても、できる活動なので、山岳会なんか入らずに、好きにキャンプでもしてくればいいのでは…と思ったりします。
せっかく趣味で登山やクライミングをしても、トップクライマーの業績の、何も判断できる力が付かないようでは…。
登山の価値すら、分からないのでは…。
そんなわけで、私は一般クライマーにすぎませんが、
ギリギリボーイズが、登山界で、多くの山男たちの羨望を浴びる存在だ、
ということは、登山歴2年目とかのド素人さん時代から分かったわけです…。
しかし、最近、10年以上登ってきて、
その羨望が、誤解に基づいている
ことが分かるようになりました。
古いクライマーも、若かったら、ギリギリボーイズのみなさんと、同じことをやれるかというと、全然やれないのです。だって、”フリークライミングはアルパインの基礎力です”、の”基礎力のレベル”が、”5.9→5.12”なんですよ。5.11だった時代ですら、とっくの昔。
5.11って御坂山岳会の先輩たちは挫折感を持って迎えているグレードみたいでした。当時の私にはまぶしいグレードで羨ましい、と思っていましたが、自分がその地位に近づいて今は気持ち分かります。
俺だって若けりゃできたと思っていると思いますが、若くても、誰でもできることではありませんよ。何年かはフリークライミングだけの修行にささげて、5.12が、まるで5.9のように登れなくてはならないんですから。
まぁ、今のジム上がりの若い人や大学山岳部は、ロープをまとめるのに、一苦労していますから、もちろん、そんなレベルの人(=新人や女性)と比べたら、昔のアルパインクライマーはすごいのですが。
でも、40年登ってきたら、1年目の人より優れているのは当然ですよね?
さて、一村さんのことは、そんなに重要人物とは知らず…。この記事で知りました。
以下、良いと思った文章の箇所を抜き出します。太字当方。
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彼はメディアに露出することをひどく嫌悪していたという。山で価値の高い成果を挙げると山岳雑誌等にレポートの提出を求められるのだが、パートナーが書くことはあっても一村が書くことはまずなかった。
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日本で一時期、この登山スタイルによる成果が「狂い咲いた」時期がある。狂い咲きという表現を使ったのは山岳ライター兼編集者の森山憲一だ。
「日本のアルパインクライミングって、'90年代はずっと停滞していたんです。凝り固まったタイプの登山家たちばっかりで。その状況で『ギリギリボーイズ』という20代のやつらが現れた。彼らは山を舐めるなと威張っていた古い気質の登山家たちがとても登れないような壁をバッコバッコ落としていったんです。'05年あたりから始まって、'12年、'13年ぐらいまでがピークだったかな。それは鮮烈でしたよ。最初の頃、彼らの中心にいたのが一村君と横山君だったんです」
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その前年から、横山は「冬壁」に取り組み始めていた。彼らが出てくる以前、クライミングと言えば、岩肌にいくつものボルトを打ち込み、ただ、真っ直ぐに登るというのが主流だった。後続する者も、そのルートを踏襲する。そこには横山が求めていたものはなかった。
「夏に登ったら、そんなにたいしたこともない壁も、冬になると雪とか氷でデロデロになる。下から壁を見上げたとき、氷と雪とクラック(岩の割れ目)をどうやってつなげば登れるかを考えるんですけど、僕にとってそれはパズル感覚に近い。年によって氷や雪が付く場所が変わるので、正解は毎年変わる。難しいし、怖いけど、それが楽しいんですよね」
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「残置無視」。これは一村の代名詞でもあった。一村が書き残した数少ない署名記事、『ROCK&SNOW』の2006年6月号に掲載されたエッセイにはこんな言葉が記されていた。
〈ボルトラダー(ボルトが階段のように連なっているルート)をたどる行為ほどむなしいことはない。これはすでにクライミングではない〉
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横山は一村と組んだことで、2段、3段抜かしで階段を上がっているかのような感覚になっていた。
「ここまでできるんだ、ここまでやっていいんだということに気づかせてくれた。自分が解放されましたね。あれが僕のブレイクスルーでした」
ここから若手クライマーたちの解放の連鎖が始まる。狂い咲きの季節がやってきたのだ。
ただし、花の命は永遠ではない。咲いた花はいつか枯れる。あるいは、散る運命にあった。
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