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2022/12/31

死と無執着について

 ■ 仏教の目指すべきゴールである無執着とはどういう境地なのか?

ーーーーーー以下引用ーーーーーーーーーーー
仏教は肉体が壊れても苦痛に耐えなさいという教えではありません。それは極端な苦行ということで、禁止だと教えています。

では無執着と何が違うのかというと、心を育てていった先に、肉体にも何にも囚われない(不動)の精神的な境地があり、仏教ではそれを悟りと言いますが、その境地が究極の幸福(安楽)だと説いています。

そういう境地の方が実際に存在していて、その人たちは肉体に対して、どのような態度を示すことができたのか、その一例が紹介した経典に記録されていたということです。

一般人の精神は、我欲で汚れていますので、何よりも肉体を大事にします。あるいは、貪瞋痴によって、肉体を何より疎かにします。


この両極端では、どちらも間違えた結果となってしまいます。

ですから、肉体は丁寧に扱って、心を育てなければ意味がないというのが仏教と理解しています。心を育てるためには肉体が必要です。肉体の上手な使い方も学ばなければいけません。

ですから、心を育てる人であれば、生きることと肉体の維持のバランスが取れる思っています。

まず肉体を無闇に酷使しない、壊さないようにする。壊れたら修復する。

しかし、肉体が壊れることは止められない、死ぬことは避けられないので、完全に壊れる前に、死んでしまう前に、できる限り心を育てる努力をする。

心を育てた分だけ、肉体が壊れても苦しみを減らすことができる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 引用終わりーーーーーーーー

■すでに覚った人(阿羅漢)が自分の体(肉体)に対して、執着しない態度とはどういう感じなのか?

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洞窟に住む僧侶が蛇に触れ、その毒の影響で肉体が壊れ、住む場所を汚してしまうので、他の僧侶に頼んで自分を洞窟から運び出してもらう

ーーーーーーーーーー▼相応部経典 第1六処相応 第7ミガジャーラの章 7「ウパセーナ蛇経」(Upasena āsīvisa sutta)(パーリ語 光明寺経蔵)

■ クライマーバージョン

クライミングにおいて、肉体の保護、つまり、文字通りの命綱であるロープワークや、登攀能力の補強なしくて、岩場に向うのは、自殺行為、つまり、無謀です。

敗退を前提としないロープ構成で行く、懸垂下降が出来ないロープ長というのも、同じく、無謀であり、極端な態度です。

適切にプロテクションをとらない、という心も同じで、そこにあるのは、

です。クライミングにおいては、肉体を酷使する羽目に、頼んでいなくてもなることがあります。

私はー25度になる雪山でキャンプしていたところ、冬フライなのに雨が降ってきてしまい、テントずぶぬれになったことがあります。これなど、頼んでいなくても、肉体を酷使せざるを得ない目に遭うということですよね?

日ごろのトレーニングをおろそかにする、ということも肉体を丁寧に扱わないということだと思います。

しかし、一般クライマーにはないことですが、死に瀕することがあります。

私の師匠の師匠は、キノコ汁の毒に当たったそうです。その方はきのこ取りの名人で、みんなに食べて良いキノコとそうでないものを選り分けてくれたのだそうですが、その選り分けた後のを間違って口に入れてしまったのだそうです。

キノコ汁で亡くなるとは、お釈迦様の亡くなり方と同じですね。

その方は、緊急で入院したりせず、ご自身の死を受け入れて、静かに息を引き取られたようです。

一般に、肉体への執着が強いと、

 男性なら 強さ への執着

 女性なら 美貌 への執着

が生まれ、自分がもはや若いころのような肉体強度の強いアルパインルートに行けないことを、苦々しく思い、しがみついてしまい、

 誰か若い人に担がせてでも、行こうとする

ことになってしまうようです。

プライド(慢)が高すぎて、俺のために飯と酒を担いでくれるならビレイしてやってもいい、という態度になってしまうということですね。

そんな高慢は、手放し…無執着ということ…が進まないから、起こることなのだろう…

と仏教を聞くようになり、分かるようになってきました。対等の関係性、互いに感謝できる関係性でクライミングは登るべきであり、

  ただ登ってくれるだけで相手に感謝できない、

と感じられるとき… つまり、相手が負担だ、とか、相手によって自分の生命が脅かされる、と感じる時は、

登らない (無執着)

という判断が良きこと、だと思います。

クラックの岩場