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2019/02/26

ゲストハウス構想と不登校の子供のためのアウトドアスクール

最近、社会的不適応な子供たちのためのアウトドアスクールという構想を持ち始めました。

福岡では里親募集広告が、ひときわ目立ちます。一方で、養育親という道は誰にでもとれるわけではなく、年齢と収入に恵まれた人だけの道です。

私自身も、シングルマザーの家の出身ですし…子供たちに必要な経験が何か?ということには、ある程度、推測がつきます。

社会的に不適応な子供…不登校の子、いじめにあった子、学校の勉強が面白くない子、などを受け入れて、自由に過ごせる場が足りていない…というので、アウトドアスクールは最適な場であると思いつきました。

というのは、私自身が行き場がない時に行く場所が、熊本城の森の中だったからです。

しかも、岩登りは習得に時間がかかり、忍耐が学べる。自分自身をよく知ることにもなる。

そして、母なる自然から教えられることはとても多いです。自然から学ぶことは、その辺の大人の比ではありません。

寒い暑い、から始まって、虫とか花とか、仲間を思いやる心とか、こんなに多彩な、色々なことが学べる場は、そんなにはないと思います。

私は子供の貧困のサバイバーですが…具体的には、シングルマザーの家の出で、大学は夜間学部を働きながら卒業した”勤労学生”ですが…。

まだ大阪の都会にいた学生時代、同じような貧困家庭の子供たちを気の毒に思って、無料の家庭教師というボランティア活動をしていたが、こりゃダメだとすぐに悟りました。最初から努力する気がないからです。

しかし、勉強だけが社会を生き抜く力でもあるまいと思います。

勉強が得意でない子は、運動を頑張ればいいのだし、運動が苦手でも、コンピュータは得意だとか、その子の得意なことを伸ばしていくことが、むしろその子の幸福に与することであって、無理していい学校に入学してどうなるんだとも、自分の経験から思っていました。

勉強を頑張らないことにはあまり異存はなかったですが、かといって何も頑張らない、では困りますね。

とはいえ、現代では、”子どもの才能を伸ばす仕組み”は、既存の学校教育の中には用意されていない。

したがって、その子の才能や長所、得意を発見することなく、ただ学業の放棄、ということになれば、それは、自分自身を粗末にすることになってしまう。

そういう子供が行き場がないのは、その子供のせいだけにはしてしまえない…。大人の側、社会の側に多様な才能を伸ばす教育の仕組みが足りていないというだけのようにも思えます。

■登攀で学ぶ生き方

登攀、今はやりの言葉でいえば、クライミングは、(リスク)と(自分の能力)を天秤にかける力を育むことができる。

また(リスク)に対して、やみくもに怖がるのではなく、きちんと向き合っていく、という姿勢を学べます。

(リスク)と(結果の重大さ)の違いも学べます。

例えば、私は18歳の時家を出る決断をしたが、一般的には、18の娘が、保護者の後押しもなく支援もなく、自立する決断をするのは、とても難しいだろう…と思えます。

しかし私には勝算がありました。大学の寮に入ることが決まっており、寮費は3000円/月、食べるのにおそらく3万円はかかると見積もっていました。これなら、切り詰めればやっていけるだろう、と踏んでいたのです。あとはやるだけです。

実際は、最初の数か月はそれこそ、おにぎりしか食べない生活をしたのですが、図書館でフルタイムの仕事を見つけたときから、事態は好転し月収は13万円しかなかったが、この時期は私の人生の中ではもっとも可処分所得が多い時期となりました。一般的な想定とは逆です。

こういう勝算を、”世間の常識から離れて”考える力…社会ではそれを地頭力、と呼んでいるようだが…が必要ですが、それが学校教育では学べないです。

この力が、登山…特に登攀を含む場合、は必要になり、地頭力がないと、容易に山に殺されてしまいます。

そこが私が山での教育…というか、ただ単純に山に接すること…が、現代の若い人の生きる力に通じると思う点です。

多くの人は地頭力を発揮しない。ほとんど”常識”と言われるものに丸め込まれたまま、たぶん、一生安泰ではないのだろうか?という幻想を見ているように思われ、それは山の世界でも顕著であり、そのために多くの人が亡くなっているような気すらします。

さて、不登校の子供たちのアウトドアスクール、登攀スクールは、定年を迎えた山ヤのオジサンたちの第二の人生の場となれるのではないかとも思っています。

定年後の山で、自分の好きに登りたい、というのが本音であろうから、自分の登りたい山がある人はそれをすればいいと思います。

一方で、もはや三大北壁を目指す年でもないだろうし、今さら5.13を目指したところで、なんになるのだ?と考える人も多いだろう。

そうなると、その登攀活動の中心的価値は、”意義の追及”、ということになると思う。

私自身もそうで、自分の力を試す、というフェーズにはいない。山に挑んだら、負けるに決まっているからだ。

生きるに値する人生とは意義ある人生、というものだ。

そう思える段階に来た人にとっては、誰かのためになる、ということは非常に大きな生き甲斐、生きる意味の創出になる。

ましてや、自分がこれまでの人生をかけてきた分野で、若い人が人生を切り開く力を創出するということになれば、なおさら。

そんなことを夢見ている。