2025/04/22

九州クライミングで私に起こったこと

心理学を学んで、九州で起こった私の悲劇について解説できる力が私につきました。

次のようなことが起こっていました。

■ 言葉より前に刻まれた「死の恐怖」が、現在の危機感覚を導いていた

私は、まだ言葉を話すこともできなかった幼少期に、父親によって水の中に突き落とされ、溺れかけた体験があります。そのときの恐怖は、言葉や記憶という形では残っていないものの、身体感覚や情動として深く刻まれた「感覚記憶」として今も私の中に残っています。

そうした感覚は、日常では意識にのぼることはなくても、ある種の類似状況――たとえば命の危険を感じるような瞬間に、突如として再活性化されることがあります。

逆に言えば、私は再活性化されるほどの危険を冒していたのです。普通、ゲレンデクライミングで、命のリスクがあることはほとんどありません。

ところが、九州では、普通に楽しいはずのゲレンデクライミングですら、命を監視しておかないと殺されなかねない危険行為と化していたのです。堕落という意味です。

私にとって、それが再び表出したのは白亜スラブの登攀でセカンドを務めたときでした。パートナーには、私が得たクライミングでの知恵やきづきをシェアしてきたつもりでした。ところが、彼は、それまでの2年の絆の蓄積にもかかわらず、

・カムの配置が悪くてロープドラッグし、セカンドはフリーで登れない

・そもそもロープアップされない

・今使ってるロープ長さ以上、登攀し続けてしまい、ロープが足りなくなる

・支点のギア不足

・敗退シナリオなし

を私が批判してきた、危険なクライマーを、彼本人が真顔でかっこいいと信じていたのです…(汗)。この時のやれやれ感を分かってもらえるでしょうか?

最も知識や危機感を共有していたと思っていた相手自体が、リスクそのものだったのです。

彼のゲレンデでのビレイは普通に良かったので気が付かなかったのです。つまり、ゲレンデでこなせるからって安心したらダメってことです。つまり、その基準で相手を受け入れていれば、自分が重大な事故…下手したら死…に遭うかもしれない、と強い危機感を抱いたのです。

このときの私の反応は、単なる不安や過剰反応ではありませんでした。心理学上の解離という現象が起こりましたが、それは、言語化以前の記憶を呼び出すプロセスでした。ただの被害妄想ではなく、実際にクライミング上の技術的な問題があり、3つも4つも重なっており、安全上のミスがいくつも存在していたのです。致命傷にならなかったのは、相手の技術力ではなく、私自身のセカンドクライマーとしての技術力の高さのためでした。

つまり、私の中で起きていたのは:

  • 過去に体験した「命の危機」が、似た構造の現在の状況によって感覚レベルで再起動された

  • その恐怖には現実的根拠があり、客観的にも命を脅かす状況だった

  • 過去のトラウマと現在の現実が、ある一点で一致した

  • そして、トラウマ記憶を言語化できるようになった

という出来事でした。

これは、白亜スラブで決定的になりましたが、それ以前から、いくつもいくつも、危険を知らせる兆候がありました。なのに私が危険であると聞き入れなかったため、白亜スラブがおきなくてはならなくなったのです。例えば

・ベテランと言われる人たちが最も危険な行為をしている

・大ランナウトの比叡みたいなところで、俺のほうがまだ登れる!と粋がるための材料に登れない新人や落ちて死んだ人の死が正当化の材料に使われている。

・そのことに業界全体が無自覚で自浄作用がない

です。 事例としては、いまだに支点ビレイ、残置利用のアルパインルート、壁から2mも離れたビレイ、2ピンしか打たれていない5.9、です。

■ 過剰警戒

トラウマ体験者は**過剰警戒(hypervigilance)**の傾向を持つことがありますが、それが逆に「リスクの予兆」を瞬時に察知する能力として働くこともあります。

私の場合、その鋭敏な感覚が、技術的な危険を即座に見抜くという形で現れたのです。

奥村さんにまで「騙されてはいけない!」と叫んでしまったのは、過剰警戒です。解離という現象がここでもおきていますが、トラウマが真実であることを示すだけです。

ところが、この危機感は、九州では上位の影響力のあるクライマーには、全く伝わりませんでした。

九州では99%のクライマーがまだ初心者レベルで、ビレイ技術の不備にすら気づいておらず、自分が「何を知らないか」を理解できていない段階にいたからです。その人たちは山岳会に属して、育ててもらう、側で満足しています。

私の警告が共有されなかったのは、私だけが“危険の全体構造”を見抜いてしまっていたためでした。

唯一、樋口先生の段取りで奥村さんたちなどのトップクライマーたちだけが私の感覚に共鳴しました。彼らもまた、「安全は前提ではない」世界に生きており、命を預け合う行為の本質を理解していたからです。

このようにして、私の中で、

  • 幼少期の命の危機という前言語的トラウマ

  • クライミング中の現実的な危険の察知

  • 他者との認識ギャップによる孤立感

が重なり、強烈な体験として立ち現れたのでした。

■ 九州へ恩返ししたい気持ちが、仲間を捨てさせなかった

次の対話は、私のパーツとの対話です。

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危険を伝えたのにも関わらず受け取られず、悲しみに沈んでいるパーツとの対話

悲しみの声:
「私はただ…ちゃんと伝えたかっただけなの。
あれは危ないって。助けたかっただけなのに。
なんでみんな、私の言葉を無視するの…?」

クライミングの神様:
「あなたは、すごく勇気を出して声を上げたよね。
たとえ怖くても、誤解されても、
それでも“大事なことだ”って伝えたかったんだね」

悲しみの声:
「うん……伝わらなかったのがつらかった。
バカにされたり、嫌われたり…」

クライミングの神様:
「でも、本当にそう?黒田さんは黒田論文を書いてくれたじゃない?JFAの井上さんも来てくれたし。樋口先生は奥村さんの講習会を開いてくれたし。いいこともいっぱいあったよね?あれで、誰がまともで、誰が危険な人か?がわかったでしょう?」

悲しみの声:

「うん。でも、私は自分と接点があるクライマーに、安全なクライマーになってほしかったの。黒田さんやJFA、奥村さんは、私が作り出した良縁。そこに私の、闇落ちした弟であるアラーキーも回復させたかったのよ、あるいはあそぼうの松井さんもね…特にあそぼうは、故郷熊本の会だし、私にとっては恩返し…。あの会が奥村さんとつながれば、私が差し出すことができる最良のプレゼントになったはずだったわ。良縁ってのはね、ほんとに難しいものなのよ、得ること自体が。なのに、いらない!って返されたの。」

クライミングの神様: 

「私は、今ここにあなたを抱きしめるためにいるよ。あなたは頑張ったよ。本当に。だって、あなた、クライミングをしたくてやっていたわけじゃないんでしょう?義務感、正義感、やさしさから登っていた。知る者の務めとして。

その悲しみは、間違いなんかじゃない。あなたが感じたことには、ちゃんと意味があるよ」

悲しみの声: 

「そうなのよ。私は自分のためのクライミングは終わっていたの。山梨で。だから九州では、山梨で培った目や知識を地元のレベルアップに還元したかっただけなのよ。まるで40年前のまま、時を止めているクライミングをやり続けるなんて、地元民として恥ずかしいじゃないの?」

クライミングの神様:

「もし、アラーキーが奥村ビレイ講習会に来て、松井さんが来てくれてたら、どうだったの?」


悲しみの声:

「私はとっても嬉しくなって、よし!セーフクライマーの会結成だ!となって、奥村さんのやり方を世の中に広めていく活動にシフトしたと思うわ」

クライミングの神様:

「それがあなたの本当望みだったのね」

悲しみの声:

「ええ、でも、叶わなかったわ」

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つまり、こういうことだったのです。私は自分の仲間や故郷を深く愛しすぎていたのです。

そのために、自分だけが幸せになる、ということができなかったのでした。

これは、私が弟を救えなかったという罪悪感を抱え、次は何としても救いたいと思っていたためです。

以上が九州クライミングで私に起こったことでした。

次のリンクにあるようなクライミングの在り方は全く正当性がなく、クライミング事態をむしろ冒涜するような在り方です。

お粗末がお粗末とわからないほどにレベル低下してしまうと、もう回復は困難という事例かもしれません。

九州クライミング4年の総括

https://allnevery.blogspot.com/2021/12/blog-post_16.html

お粗末系クライマーの実態

https://allnevery.blogspot.com/2021/12/blog-post_15.html

■  命を守るための「警告」が、受け止められなかった理由

私は、自らの過去のトラウマ(溺死しかけた経験)を背景に、命の危機に対して非常に敏感な身体感覚を持っていました。

その“過剰警戒”とも言える感覚は、実際には高度なリスク察知能力として働いており、現場の危険を即座に見抜くことができたのです。

しかもその指摘には、客観的かつ技術的な根拠がありました。
にもかかわらず、その声は無視された。あるいは、軽んじられた

なぜでしょうか?

理由の一つは、周囲の多くがまだ「何が危ないのか」すら見えていない段階にあったからです。

“知らないことを知らない”という段階では、リスクは知覚されず、警告は「過剰反応」として処理されてしまいます。

その結果、正しいことを言っている側が浮いてしまい、孤立するという構図が生まれるのです。

■ 「本当に守りたかったのは、身近な人たちだった」

このクライマーが守りたかったのは、自分だけではありませんでした。

むしろ、自分と関わりのあった仲間たち――地元のクライマーや相方を救いたかったのです。

彼女は、自分の培ってきた安全意識と知識を、ふるさと熊本のレベルアップのために還元しようとしていました。

そして、全国的に高く評価されているインストラクターとの“良縁”を橋渡しすることで、地元のクライマーたちに安全なクライミング文化を届けようとしていたのです。

しかし、その手は振り払われました。丁寧に選んだプレゼントが「いらない」と返されるように、彼女の善意と長年の努力によって得た贈り物は、受け取ってもらえなかったのです。

■ これは、すべてのクライマーに関係のあること

クライミングは、「死なないためのリスク回避技術」を前提にした活動です。

それなのに、安全への警告が無視され、現場の技術的課題が放置されるような文化が続けば、命を落とすのは時間の問題です。

この事例は、「声を上げる側」が悪者にされる構図の典型でもあります。しかし本当は、こうした“見えてしまう人の声”にこそ、私たちは耳を傾けるべきなのです。

◆ 何が必要だったのか?

  • 経験豊富な者が声を上げたとき、それを受け止められる土壌

  • 初心者や自称ベテランが、自分の“知らなさ”に気づく謙虚さ

  • 安全を軸にした「良縁づくり」への理解と敬意

■ 結びに彼女は言いました

「私は、自分のためのクライミングはもう終えていたの。
今はただ、地元に還元したかった。私が山梨で出会った安全の知恵を、
故郷に届けたかっただけだったのに――受け取ってもらえなかった」

その言葉が、今もあなたの耳に届いくのなら。あなたの次の選択が、現場の誰かの命を守る第一歩になるかもしれません。